思い出のマーニー 感想と考察 17 (読書感想1~2章)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
さてさて、もしこのブログを見続けて下さった危篤奇特な方がいるのであれば*1「原作も読んでみようかな?」という気になってくれた方もおられるのではないでしょうか?
もし映画版が好きならばぜひ原作も読むことをお勧めします。映画では原作の前半をメインに物語が作られていましたが、原作には後半がありますので映画の続編を読むような気分で楽しむことができると思います。
むしろ後半のほうがこの物語のメインともいえるのですが、映画を作るときには「主役のマーニーが後半出なくなるのはつらい」という理由で前半に比重が置かれたようです。
以前にも書きましたが、思い出のマーニーの原作は、岩波、角川、新潮の3社から出ています。
まずは岩波版です。宮崎駿や鈴木敏夫、米林宏昌が読んだのはこの岩波版でした。児童文学らしい平易な日本語で翻訳されている印象を受けますので、小学生以下の子供が読むのであればこれをお勧めします。逆に大人が読むにはすこし辛いかもしれません。
- 作者:ジョーン ロビンソン
- 発売日: 2003/07/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 作者:ジョーン ロビンソン
- 発売日: 2003/07/16
- メディア: 単行本
次に角川版。私が購入したのはこれです。これは現代口語風な翻訳がされているので、中学生以上の大人が読みやすいのはこれだと思います。私はこれを強くおススメします。
- 作者:ジョーン・G・ロビンソン
- 発売日: 2014/07/10
- メディア: 文庫
最後に新潮版。岩波版や角川版と比較すると硬い日本語が多いのが特徴です。私の家の近所の本屋では角川版よりも売れているように思われます。
- 作者:ジョーン・G. ロビンソン
- 発売日: 2014/06/27
- メディア: 文庫
それぞれ冒頭部分をWEBで試し読みできるので、好きな翻訳の本を購入するのが良いでしょう。
岩波版
http://www.iwanami.co.jp/.PDFS/02/3/0259730.pdf角川版
http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=321405000137
以下、私が購入した角川版をベースとして、読書感想文を書いてみたいと思います!
第1章 アンナ
小説ではアンナが湿地に向かう列車に乗るところから物語がスタートします。アンナの養母であるミセス・プレストン(頼子)はアンナに愛情が伝わるように別れのキスをするのですが、アンナはそんな気づかいが逆に"2人の間に垣根ができてしまう"行為だと受け取ってしまう子のようです。
どうやらアンナは不自然なことが嫌いなようですね。アンナは本当はミセス・プレストンに「自然に」さよならが言いたかったのですが、キスのせいでそれができなくなってしまい、その失望を「ふつうの顔」をすることで隠そうとします。
原作のミセス・プレストンは映画版よりも心配性のようでクドクドとアンナに話しかけるのですが、列車が発車しはじめるとドンドン早口になっていき、最後には走りだして「悲しそうな、すがりつく顔」になります。彼女が本当にアンナのことを愛していることが見て取れますね。
すると、そんなミセス・プレストンの表情を先ほどのキスとは異なる"自然な素顔"だと受け取ったのでしょうか?アンナの心からは"垣根"が消え、先ほどまで閉ざしていた心を開いて窓から身を乗り出しながら「おばさん行ってきます!」と言うのでした。
ところで、この「ふつうの顔」とはどういう表情なのでしょう?アンナの本心を隠すための仮面の顔のようなのですが、ミセス・プレストンには「無表情」に見えるようです。この後のシーンで喘息の診療に来てくれたブラウン先生の前でもアンナは「ふつうの顔」をするのですが、ブラウン先生の目には「むずかしい顔」と映っています。他にはこの後のシーンでアンナが周りの乗客から「物静かなおちびさん」だと思われないように「眉間にきゅっとしわを寄せた怖い顔」をするのですが、これも本人は「ふつうの顔」だと思っているようです。
「無表情」「むずかしい顔」「眉間にきゅっとしわを寄せた怖い顔」・・・どうも「ふつうの顔」とは、何か決まった1つの顔を指すのではなく、その場に最も相応しいとアンナが考える表情なのでしょうか?
第1章では他に、アンナが「なにも考えない」「やろうとすらしない」子であることが語られます。学校では仲良しの友達がおらず、他人から遊びに誘われることも無いようです。そしてどうやらその原因は、アンナが自分は魔法の輪の外にいると思い込んでいることが原因のようです。
そしてミセス・プレストンはペグ夫妻(大岩夫妻)にアンナを預けたいとの手紙を出しOKの返事を受け取ります。その返事の中でアンナのことが「もの静かなおちびさん」と書かれていたのですが、それを見たアンナは不機嫌になります。ミセス・プレストンはそんなアンナを見て「わたし何か気にさわるようなことを言ったかしら」と気に病むのですが、ペグ婦人がアンナをそのように書いてきたということは、たぶんミセス・プレストンがアンナをそういうふうに紹介したのが原因ですよね。きっとアンナはペグ婦人に対してではなく、そのようにアンナを紹介したであろうミセス・プレストンに腹を立てたのでしょうね。
アンナを乗せた列車は「ふつうの顔」をしたアンナを乗せて、湿地のあるノーフォークへと向かうのでした。
第2章 ペグさん夫妻
ノーフォークに着いたアンナをペグ婦人がバスで迎えに来ていました。バスの中でアンナは小さな女の子の隣になることを恐れるのですが、アンナは自分よりも年齢が低い子と話すのが苦手なようです。この後マーニーとの別れを迎えると、アンナは小さな女の子ととても仲良くなるのですが、それもアンナの成長の一つのようです。
バスに乗っていると海が見えてきます。しかしバスの乗客は誰も海には見向きもしません。アンナはそれを不思議に思い、その理由を「慣れっこになっているから」だと思うのでした。ここは少し印象的なシーンですね。たとえ素晴らしいものであっても身近にありすぎると気にかけなくなることが良くあります。「青い鳥」の物語も、結局青い鳥は自分の家の鳥かごにいましたしが、この海の話は何かそういった暗示なのでしょうか?
ペグ夫妻の家に着くアンナ。部屋の壁に「よきものをつかめ」とかかれた刺繍の額縁が掛かっているのを見て、自分を「よい」子だと思っていないアンナは不愉快になります。以前このブログにも書きましたが、これはどうやら新約聖書の言葉のようです。この言葉はこの後も物語に何回か登場する印象的な言葉なのですが、もしかするとこれ以外にもキリスト教関係の台詞やエピソードが原作の中にあるのかもしれませんね。もし気付いた方がいたら教えて下さい。
でも、それ以外は部屋が気に入った様子。映画では「よその家のにおいがする」と言い捨てましたが、原作では逆に「ふんわりあたたかくて、甘くて、どこか懐かしいにおい」と感じます。
アンナはペグ夫妻と養母のミセス・プレストンについて会話をしミセス・プレストンを「本当の母親以上」だと話します。そしてそう話しながら、列車に追いつこうと走るミセス・プレストンの姿を思い出し、少し目頭を熱くするのでした。
映画の冒頭では杏奈は頼子のことを「メエメェうるさいヤギみたい」と独白しているのですが、原作のアンナは心の中でミセス・プレストンを愛していることが見て取れます。ミセス・プレストンへの手紙にも「何トンもの愛をこめて」と書くアンナ。しかし一方でアンナの心ではミセス・プレストンへの小さなわだかまりが育ちつつあり、自分が本当にミセス・プレストンを愛しつづけられるのかどうか不安にもなるのでした。
*1:アクセス数はかなり少ないです^^;
思い出のマーニー 感想と考察 16 (マーニーは幽霊?幻想?本物?その2)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
マーニーは幽霊でしょうか?幻想でしょうか?それともタイムスリップでしょうか?
これまで何回か触れてきましたが、そろそろマーニーの正体に決着を付けようと思います!
物語を時系列に追って、幽霊説、幻想説、タイムスリップ説にポイントを割り振り、どの説が有力かを確かめてみることにします!
ちなみにポイントの振り方は超適当なのでご容赦を・・ではスタート!
- 大岩おじさん「ああ、サイロだよ。今は村の子供達が肝試しに使っているよ。本当のオバケがでるらしいよ~」
幽霊ポイント +1
※怪談っぽい?
- 無人の湿地屋敷に明かりが見えた気がする
幻想ポイント+1
※原作では夕日が反射しているという説明でしたが・・・
- 大岩おじさん「でも、湿地屋敷には近づかないほうがいいな。出る」
幽霊ポイント +1
※怪談モード
- 髪をといてもらうマーニーの夢を見る x 2回
幻想ポイント +2
※幽霊は夢には入ってこないというルールにします
- ボートが岸辺においてあり、ろうそくが灯っている。
幽霊ポイント +1 幻想ポイント +1 タイムスリップポイント +1
※不思議なシーンですが、どうとでもとれるかな?
- ボートのオールが動かない
幽霊ポイント +1
※明らかに怪談モード
- 杏奈「私の夢に出てきた子そっくり」
幻想ポイント +1
※杏奈の妄想!?
- マーニー「夢?夢じゃないわ」
幽霊ポイント +1 タイムスリップポイント +1
※本人が夢じゃないというので幻想説はなし
- マーニーの母「ほほほ、ごらんになって夜の湿原を。もうすこし近くに行きましょうよ」
- ばあや「奥様!」
幽霊ポイント +1
※お母さん達も地縛霊っぽいので
- マーニーとの出会い2回目 まだ明るいうちにマーニーがボートを漕いでくる
幻想ポイント +1 タイムスリップポイント +1
※幽霊は明るいうちに出てこないので
- 杏奈が大岩夫妻を思い出せない
幻想ポイント +1
※マーニー本人も戸惑っているので、幽霊の仕業ではない
- 前日の月が三日月だったのにパーティーの夜の月が満月
タイムスリップポイント +1
※時空がゆがんでいる?
- 杏奈、郵便局脇で寝ているところを発見される
幻想ポイント +1
※夢だった?
- 杏奈、湿地屋敷に行くが無人
幽霊ポイント +1 幻想ポイント +1 タイムスリップポイント +1
※これはいずれにも受け取れるかな?
- 杏奈「私、マーニーのこと忘れそうになるなんて!」
幻想ポイント +1
※ここは幻想説が一番シックリくるので
- 杏奈「私が忘れちゃったから怒ってるのかな」
幻想ポイント +1
※幻想しなければマーニーに会えない?
- 久子「その子、私の知ってる子に似てる。とてもいい子だった」
幽霊ポイント +1 タイムスリップポイント +1
※杏奈の幻想で描いた絵なら、あまり似ないと思うので
- マーニーの日記「花売りの子とダンスした」
幽霊ポイント +1 幻想ポイント +1
※本当に杏奈と会っているなら「杏奈とダンスした」と書くはず
- 杏奈「マーニーは私がつくりあげたの。空想の女の子」
幻想ポイント +1
※ご本人がそうおっしゃるので
- 霧の中からマーニー登場 背景の音がなんか怖い
幽霊ポイント +1
※霧の中なので昼だけど幽霊が出てきてもOK 音が怖いので幽霊っぽい
- マーニー「私はお屋敷から離れられないの」
幽霊ポイント +1
※明らかに地縛霊
- マーニーが崖の上から足を踏み出す
幽霊ポイント +1
※杏奈はそんなこと幻想しないと思うので
- マーニが杏奈の事を「和彦」と言いだす
幻想ポイント +1
※幽霊ならそんなことは言わない
- 彩香がサイロに行く杏奈を目撃するが、マーニーは見えない
幽霊ポイント +1 幻想ポイント +1
※マーニーには物理的実体が無い!?
- サイロのマーニーが和彦のコートを羽織っている
幻想ポイント +1
※突然あらわれた謎のコート
- マーニーが杏奈を残してサイロから去る
幻想ポイント +1
※幽霊ならそんなことは絶対にしないと思うので
- 夢の中でマーニーとの別れ
幻想ポイント +1
※幽霊は夢には入らないルール
- マーニー「あの時あなたはあそこにいなかった」
幽霊ポイント +1 幻想ポイント +1
※これもどっちとも受け取れるかな
- マーニーが赤ん坊の杏奈に語りかけるシーン
幻想ポイント +1
※この杏奈のかすかな記憶がマーニーを現在によみがえらせた?
- マーニーが手を振っているように見える
幻想ポイント +1
※幽霊は昼間に出てこないルール
さて、集計結果は以下となりました!
第1位 幻想説:21ポイント
第2位 幽霊説:14ポイント
第3位 タイムスリップ説:6ポイント
よって幻想説の勝利とします!!
・・・な~んてことはありません(笑)
別に1つに決めなくちゃいけない理由はないですしね。
幽霊かもしれなければ、幻想かもしれない。もしかしたらタイムスリップして本当に会ってるかも?ってことのほうがずっと楽しいですから!
真実はあなたの胸にあります!
AppleがiPhone5を無料で交換してくれた話
先日飲みに行ったら、友人から「携帯どうしたの?」と言われました。
言われてビックリ!iPhone5が内部から膨張して液晶が2~3ミリくらい浮き上がった状態になっていたのです!全く気付いていなかった。。
まぁバッテリーの膨張以外にはありえないですよね。私はiPhone5を人一倍酷使している人間なので、無理もありません。そこでiPhoneのバッテリー交換はどうすれば良いのか調べました。
ネットで検索すると沢山情報が出てきます。電池交換をやってくれるお店が色々とあるようだし、自分で交換するという手段もあるみたいです。
しかし私の目にとまったのは・・・・なんとAppleStoreへ持っていくと本体ごと無料で交換してくれたという人がいるではありませんか!!
うーむ、これはちょっと行ってみるしかあるまいと思い、早速渋谷のAppleStoreを予約して今日行ってきました。
結果・・・本体ごと交換してくれました!!
店員さんは私のiPhoneを見るなり、「ああ電池の膨張ですね。ご安心下さい本体ごと無料で交換します」と言ってくれました。
そして「データを完全に消去して良いか」を私に確認し、私の手でデータを削除してから古いiPhoneを渡し、代わりに新しいiPhoneと交換しました。全部で10分ぐらいでした。
Appleありがとう!!
でもちょっと良くわからないのは、やはり電池が膨張した人のブログだと、その人は「有料で電池交換」と言われたようです。一体何が違うんだろう?ちなみに購入から2年以上経過し、とくに保障とかは無い状態だったのですが。
まあ、私は新しいiPhoneになってとってもHapplyでした!iPhone6も買いますからね!
AppleStoreを出るとちょうどお昼時だったので、近くのラーメン屋へ行きました。
私はここのつけ麺が大好きで、以前近くで働いていたときは毎日のように行っていました。今日は数年ぶりの来店です。
お勧めは味噌野菜つけめん。ちょっと高めなお値段ですが、その価値は十分にあります。
お店に着いた時は開店前で私が1番目だったのですが、直ぐに私の後ろに数名の行列ができました。
並んで数分後に開店。するとどうでしょう、店員さんが先頭に並んでいる私を見るなり「久々だね」と声をかけてくれました!
以前来ていたときは特に会話した記憶も無いのですが・・・覚えていてくれたのですね!ちょっと感激。
ここの一番の特徴は腰のある麺。さらに100円を追加すれば、色んなバリエーションの麺にチェンジできるのですが、私はオーソドックスに太麺をチョイス。大盛りは無料です。
数年ぶりに食べた味噌野菜つけめんは、以前よりもなんだか美味しくなったような気がしました!
思い出のマーニー 感想と考察 15 (別れのシーンの解釈)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
別れのシーンに必要なもの
前回、別れのシーン前後の杏奈の心の変化について、以下の疑問点をあげました。
しかし、マーニーとの別れの後、杏奈の3つの苦悩は全て解消されたように思えます。もしそうであるならば、マーニーとの別れによって、この3つを同時に解消するような「何らかの変化」が杏奈の心になければなりません。
「マーニーの謝罪によって杏奈が祖母を許せた」とか、「杏奈の許しによってマーニーが成仏できた」という解釈にも問題は無いのですが、それだけでは杏奈の心情を説明するのに少し足りない気がします。
または、もうちょっと大雑把に「マーニーの愛を知って杏奈がなんとなく寛大な気分になった!」という解釈でも良いのですが、ここではもう少し考察を進めたいと思います。
あのシーンは「許し」なのか?
Yahooの辞書で「許し」を調べると、以下の様な解説が出ます。
2 (「赦し」とも書く)罪・過失・無礼などをとがめないこと。容赦(ようしゃ)。赦免(しゃめん)。
つまり"罪や過失の存在は認めつつも、これ以上はとがめません"ということになります。
あの別れのシーンを「許し」のシーンとして捉えると、杏奈の心の変化は以下の図で表現できると思います。
つまり、自分を残していったことは依然として罪なのだけれど、それよりもマーニーへの愛が大きいのでマーニーをこれ以上は咎めない、という解釈です。
ただ個人的にはこの解釈はスッキリしません。というのは単に許すだけだと祖母やマーニーの行為が依然として大きく杏奈の心に残り続けてしまうからです。
また、「なんとなく寛大な気分になった!」説は以下の図で表現できると思います。
太陽のようなマーニーの愛で、かすんでしまう養育費や輪の問題。
これもイマイチスッキリしません。というのは一見問題が見えにくくなってはいるのですが、それはそう見えるだけで実際には何の解決にもなっていないことになるからです。マーニーの愛で臭いものに蓋をしただけのように見えます。
では杏奈の心に何がおこったのか?
ちょっと前置きが長くなりました。
じゃあ一体杏奈の心に何がおこったのか?
私は杏奈の心のなかで価値観の大転換が発生したのではないかと思います。
それまで杏奈の心には、自分を残していった祖母と養育費を隠している頼子へのわだかまりが大きな比重を締めて存在しました。絵にすると以下のようになります。
杏奈の心の中にも、祖母や頼子を愛する心はあります。しかし、わだかまりの方が大きくて素直に愛することはできないという状態です。
しかし、マーニーとの別れによって、杏奈の心の中で大きな変化がありました。
杏奈は、「残された」とか「養育費」とかがぶっちゃけどうでも良くなったのです。
価値観が変わったことにより、それまでにもあった杏奈の祖母や頼子への愛のウェイトが大きく上昇し、逆に心のわだかまりが小さくなったのです。そしてそれを引き起こしたのがマーニーです。
実は私、マーニーを愛するがゆえにこんな本を購入してしまいました。
ジ・アート・オブ 思い出のマーニー (ジブリTHE ARTシリーズ)
- 発売日: 2014/07/31
- メディア: ムック
映画の初期設定など、いろんな情報がてんこ盛りで大変素晴らしい本です。*1
この本には映画のセリフが全て記載されているので、別れのシーンのセリフを以下に引用します。
マーニー「ああ・・杏奈・・・あたし・・もうここからいなくならなくてはいけない」
マーニー「あなたにさよならしなければならないの」
マーニー「だからねえ杏奈お願い、許してくれるって言って」
杏奈「・・・もちろんよ!許してあげる!あなたが好きよ!マーニー!」
このシーン、なんだか不思議じゃないですか?
だって、杏奈は直前まで激おこぷんぷん丸だったのに、特に理由もないままマーニーを許しているように見えます。
それまでの杏奈の心を代弁すると以下のようになるかと思います。
私を置いて行くなんて、マーニーはひどい娘だ。絶対にゆるせない!!
しかし、以下のような変化が杏奈の中に起こったのではないかと感じます。
マーニーが私を置いていったことなんて、ちっぽけでどうでもいいことだ。
だってマーニーは私を愛してくれているから!
そしてこの価値観は、そのまま祖母や頼子への気持ちにも反映されます。
おばあちゃんが私を残して死んだなんて、ちっぽけでどうでもいいことだ。
だっておばあちゃんは私を愛してくれているから!
おばさんが養育費を受給しているなんて、ちっぽけでどうでもいいことだ。
だっておばさんは私を愛してくれているから!
なぜこのような変化が杏奈の中で発生したのかというと、マーニーともう二度と会えないという直感が杏奈に再考する機会を与えたからだと思います。
このままマーニーを許さないこともできる。
でも、それって本当に重要なことなの?
でも、それで本当に後悔しないの?だってマーニーを愛しているという気持ちのほうが、ずっと大切じゃない?
だってマーニーに愛されているということのほうが、ずっと大切じゃない?本当に大切なものをしっかりとつかんで、杏奈!!
乙女チックに書くとこういうことではないでしょうか?
原作で何度も出てくる「良きものをつかめ」とはこのことなのではないかな?と思います。
実は杏奈は最初から魔法の輪に入っていた!
物語に出てくる魔法の輪。杏奈は自分はその輪の外にいるとずっと感じてきました。
他人と一緒にいても輪の外にいると感じ、どしゃぶりの雨をあびながらひとりぼっちで歩いていても輪の中にいると感じる不思議な輪です。
ぶっちゃけこの魔法の輪って愛ですよね*3
他人と愛で繋がっていれば輪の内側にいると感じ、繋がっていないと思えば外側にいると感じる。
そして杏奈は、今まで気づかなかっただけで、実は最初から輪の内側にいたのです。そしてマーニーとの別れによって内側にいると気づいたのではないでしょうか。
※今ではすこし考えが変わってきました。新しい解釈はこちらを参照してください。
思い出のマーニー 感想と考察 14 (マーニー幽霊説の疑問点)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
マーニー幽霊説の疑問点
さて、再びマーニーの考察を再開したいと思います。
以前にも書きましたが、この映画を見て私が最初に感じたことは以下のとおりです。
- マーニーは祖母の幽霊だった
- 別れのシーンは暗に祖母が杏奈を残して死んだことを謝罪している
マーニーが幽霊だという解釈には、映画の中でそれを思わせるシーンが幾つかありましたので、さほど不自然な解釈ではないように最初は思えます。ボートのオールが動かせなくなったり、マーニーが「あたしは屋敷のそばから離れられないの」と言ったり、彼女はまるで湿地屋敷の地縛霊のような描き方をされています。
しかし、時間が経つにつれ、この考えには疑問が出てきました。
最初の疑問としては「もしマーニーが幽霊だとすると、彼女は何のために化けて出たのか?」というものがあります。
幽霊というものは通常、この世に何らかの未練があって、その未練を"恨めしく思う"または"解消したい"ため出てくるものです(よね?)*1
この映画の場合、マーニーの未練は「杏奈を"残して"早死した」ことだと思います。
でも、もしそうであるならば、なぜマーニーは杏奈を残してサイロからいなくなってしまったのでしょうか?
杏奈を残して一人ぼっちにさせてしまったこと。それこそがマーニーの未練であり、それゆえに化けて出た彼女が絶対にやってはならないことのように思えます。
むしろ、何がなんでも杏奈をひとりぼっちにはさせない!今度こそは決してひとりぼっちにはさせない!そう思うことこそがマーニーにとっては自然な考え方ではないでしょうか?
もし、物語の流れが以下であったのであれば、なんとなく理解できます。
こんどこそは杏奈をひとりぼっちにさせない!(幽霊である彼女に訪れた再チャンス)
↓
ミッション成功!
↓
未練解消、そして成仏
しかし実際には、またもや彼女は杏奈を残して行ってしまうのです。
別れのシーンで謝罪しているものの、もしマーニーが意図的に杏奈をサイロに残し、それをネタに謝罪したというのであれば、もうこれは完全に彼女の自作自演ということになってしまいます。
次に不思議に感じたのは、別れのシーンのあとでおこった杏奈の心の変化です。
もともと杏奈には次の苦悩があったと思います。
- 母と祖母は自分を残していってしまった。
- 自分は魔法の輪の外側にいる。
- 養母の頼子が養育費を受給していることを杏奈に隠している。
それが、別れのシーンのあとには、これらが全て解消されているかのように見えます。
マーニーが単なる幽霊で、それと悟った杏奈が「祖母が自分を残していってしまったこと」を許したのであれば、1が解消されるということは納得できます。しかしそれに加えて養育費の問題と魔法の輪の問題までもが解消してしまうのは、なんだか少し唐突ではないでしょうか?
というのは、マーニーが祖母であり自分を愛してくれていたとしても、それは養育費や輪とは直接の関係がないと思うからです。
マーニーの愛を感じたので、杏奈はなんとなく寛大な気持ちになった!というのでは、一見問題が解決されたように見えたとしても、根本的には何も解決されていないような気がします。
ところで魔法の輪って何だっけ?
さてさて、ここで改めて魔法の輪とはそもそも何だったのかについて考えたいと思います。
魔法の輪については映画では杏奈の冒頭のセリフでしか言及がありませんでした。
この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、この人達は内側の人間。そして私は外側の人間。
どうやら、杏奈には友達がいなくて、ひとりぼっちのようです。
原作では魔法の輪については、どのように語られているのでしょうか?目につく記述を以下に抜粋します。
角川版P10-11
だってみんなは「中」にいるから−−目に見えない、魔法の輪のようなものの中に。でもアンナは「外」にいる。だからパーティーやなんかは、アンナにはぜんぜん関係がない。
角川版P49
きっとその人たちも、ほかの人たちと同じく、うわべだけ愛想よくしてくれて終わるだろう。「外」にいるアンナのことを「中」からおもしろそうにながめ、自分たちと同じものが好きで、同じものをもっていて、同じことをするものだと決めてかかる。
魔法の輪とは、つまり仲間がいるかどうかってことなのでしょうか?つまり仲間の中にいれば「中」、ひとりぼっちなら「外」という解釈ですが、どうやらそうでも無いようです。
角川版 P346-347
「中」にいるとか「外」にいるって、不思議だなと思った。そばにだれかがいても、ひとりっ子でも、大家族でも、関係ない。プリシラも、それからアンドルーさえも、時には「外」にいると感じていることを、今なら知っている。それは自分の「中」の気持ちと関係しているんだ。
あと二分もすれば湿地屋敷に着くだろう。そうしたら、まきのいいにおいをかいで、パチパチ火のはぜる音を聞きながら、ほかのみんなといっしょに暖炉の周りで足をあたためたり、お茶とこんがり焼いた丸パンを食べたりするはずだ。けれど、そんな時よりも、「外」で雨風にさらされてたったひとりで堤防を走っている今のほうが、むしろ自分が「中」にいると感じることができる。
ここでは、雨の中でたった一人表にいるアンナが自分は「中」にいると感じています。
*1:残念ながら幽霊に会ったことはまだないので、単に私の決め付けですが^^;
思い出のマーニー 感想と考察 13 (イソシギ)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
イソシギ
原作でイソシギという鳥の鳴き声が、アンナには
pity me ! oh, pity me !
と聞こえます。直訳すると「同情して」という意味ですが、角川版では
悲しいね!ああ悲しいね!
と訳されていました。
原作では数回このイソシギが登場するのですが、いっつもアンナの頭の上で「ピティーミー!オー!ピティーミー!(悲しいね!ああ!悲しいね!)」と鳴くので、なんだかアンナを小馬鹿にした印象的な鳥だと思っていました。
映画のコレ(動画の1:10)がイソシギですね。
いったいどんな声で鳴くのだろうと調べてみたのですが、こんな鳴き声のようです。
確かに"Pity me!"と聞こえるような気がします。特に最後の鳴き声(0:13)がそう聞こえませんか?
思い出のマーニー 感想と考察 12 (よきものをつかめ)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
よきものをつかめ
突然話が変わりますが、原作で何回か出てくる「よきものをつかめ」という言葉。
アンナの部屋にかかっている刺繍にこの文字があるのですが、なにか曰くありげな言葉なので、どういう意味なのだろうと思い調べました。
どうやら新約聖書の一節のようですね。
【新約聖書 テサロニケ人への第一の手紙 第5章】
prove all things; hold fast that which is good
よきものをつかめ"hold fast that which is good"の前に"prove all things"とついています。
"prove"には試すという意味があります。
つまりこの文は「なんでも試してみなさい、そして良い物をしっかりとつかみなさい」という意味に取れます。
そういえば、原作でアンナは担任の先生に「アンナ、あなたはやろうとすらしないのね」と言われていますし、ミセス・プレストン(映画の頼子)からも「こうやって『やろうとすらしない』でいると、将来が台無しになってしまうんじゃないかしら」と言われています。
つまり、あの壁にかかっている刺繍は、アンナに対して
「とにかくやってみろ!」と暗に訴えかけているわけです。
そして、刺繍に描かれている「錨」の絵。
これも新約聖書にそれっぽい記述がありました。
【聖書新約聖書ヘブライ本6章19節】
Which we have as an anchor that holds fast in our soul, which will not be moved
つまり、愛という錨があれば、私達の魂は揺らがない。という意味かなと思います。
Googleで"hold fast"で画像検索すると、錨の絵が沢山でてきますね。
我々日本人は、新約聖書には馴染みがないので気づきにくいと思いますが、聖書に馴染みのあるイギリス人とかは「よきものをつかめ(hold fast that which is good)」の言葉を見た瞬間に、以上のことが"ぴーん"と来るのではないかと思います。
思い出のマーニー 感想と考察 11 (サイロ~エンディング)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
※十一(トイチ)について興味のある方はこちらとこちらの記事もあわせて参照することをおススメします。
クライマックス
彩香はサイロへの途中の道で杏奈を見つけます。ひどい熱。お兄さんは助けを呼びに行きました。ナイス判断。きっと近所の住民の車で大岩家まで運んでもらったのでしょう。
ベットの上で熱に苦しむ杏奈。夢の中で湿地屋敷に向かい、物語はついにクライマックスを迎えます。
かなりうろ覚えなのですが、大体内容としては以下の様なセリフを話していたと思います。
杏奈「置いていくなんて酷い。絶対にゆるさない!」
・・・
マーニー「杏奈ゆるして!置いていくつもりはなかったの!」
杏奈「どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの?」
マーニー「仕方なかったの。あの時あそこにアナタは居なかった」
杏奈「え?」
マーニー「杏奈!大好きな杏奈!おねがい私を許すって言って!」
杏奈「もちろんよ!許してあげる!あなたが好きよ、マーニー!」
サイロに置いて行かれて激おこだった杏奈ですが、マーニーから許しを求められると、あっという間に全てを許してしまうのが印象的なシーンです。
嵐はますます強くなり、水に流されそうになる杏奈。杏奈大ピンチ!
原作ではこのシーン、アンナは本当に溺れかけます。
アンナは自分が無事にペグ家の自分の部屋に戻ることを妄想して難を逃れようとしますが、実際には水の中に倒れこんでしまいます。
そこで登場するのが、無言キャラのトイチ。原作ではWuntermennyという名ですが、彼が颯爽とアンナを救い上げ、ペグ家までアンナを運んであげるのでした。
ちなみのこのWuntermenny、名前には悲しい由来があって、彼は十一番目の子供だったのですが、母親の「この子は余計(one too many)だった!」とのセリフから「one too many」→「Wuntermenny」となったのでした。
新潮版では「ワンタメニー」と音訳されていましたが、角川版では「アマリンボウ」と意訳されています。
マーニーの日記の中に、湿地屋敷の窓から幼きWuntermennyがイジメられているシーンを見たという記述があるのですが、マーニーには名前が上手く聞き取れなかったようで「Winter man」と聞こえたようです。角川版では「アメンボ」と意訳されています(笑)
映画では、十一番目の子供だから「十一」つまりトイチになったんですね。
話が大分それました。
原作では以上のようにアンナ大ピンチのシーンなのですが、映画版では心配ご無用。
空は晴れ、嵐は収まり、草原の緑は鮮やかに映え、マーニーは輝く光の中で穏やかに微笑みます。
まるで幽霊であるマーニーが成仏しちゃったかのような印象を受けるシーンです。
マーニーの台詞にある「あの時あそこにあなたはいなかった」という言葉も映画のオリジナルですね。
でも正直に言うと、このシーンを最初に見た時は「そんな大げさに表現しなければならないようなシーンかなあ?」と感じました。
この映画、あと何分続くんだろう。映画館のクーラーも、すこし辛く感じてきたな。・・なんて時間を気にしていた記憶すらあります。
この物語で一番重要なシーンなのですが、ここの考察は後ほど行おうと思います。
別れの後
熱も下がってベットから起き上がっている杏奈。彩香がお見舞いに来たことを大岩婦人に告げられますが、まるで憑き物が取れたかのような印象の穏やかな笑顔で返事をします。
おや? なんだか杏奈の様子がこれまでとは違いますね。
違うのはこれだけではありません。
最後に養母の佐々木頼子が釧路に現れ養育費について杏奈に告白しますが、杏奈は既に何も気にしていない様子。
その後、マーニーが自分のおばあちゃんだったと気づきます。
そして久子に頼子を「母」だと紹介し、信子には謝罪し、物語は終わりを迎えるのでした。
鑑賞後の感想
最初この映画を見た時は、杏奈とマーニーの血縁関係には全く気が付きませんでした。
だって杏奈は日本人で、マーニーは金髪の外人。外人が日本に住んでいるのが少し不思議でしたが、まさか血がつながっているとは夢にも思いません。
劇中で信子が「杏奈の目が青くてキレイ」とヒントらしきことを言っていますが、それも完全にスルー。
その意味では舞台を日本にしたことは結構成功しているように思えます。
ところで、昨夜NHKでジブリのドキュメンタリーを見たのですが、宫崎駿はマーニーが金髪であることを気に入っていない様子。
新しく出来上がったマーニーのポスターを社内で見かけても「金髪じゃなければいいのに」と捨て台詞を残します(笑)
彼はこの映画に関わっていないようですが、当初は「舞台を瀬戸内海にしよう!」と言っていたようです。
瀬戸内海を舞台に、明るく活発なマーニーと、元気な少女杏奈が登場する「思い出のマーニー」。見てみたいような気もしますが・・・たぶん全く別な映画になっていたと思います(笑)
それにしても、マーニーが祖母だったのは驚きでしたね。もしマーニーが杏奈と何の関係もない単なる湿地屋敷の地縛霊だったならば感動も半減なのですが、杏奈の祖母だとわかると、あとからいろんな想像が湧いてきました。
なるほど!早死して杏奈の面倒を見れなかったマーニーが、幽霊になって孤独な杏奈を慰めにきたんだね!
そういえば、杏奈は自分を置いて死んだ母と祖母を憎んでいました。
あの別れのシーンは、孫を残して早死したマーニーの謝罪のシーンでもあったんだ!
そして孫から許してもらったマーニーは、無事成仏できたのでした!
めでたしめでたし。
でも、本当にそれだけなの?
ここでようやく、このブログの一番最初の疑問点にたどりつきました。
次回以降、この疑問点を掘り下げて行きたいと思います!
思い出のマーニー 感想と考察 10 (パーティー~キノコ狩り)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
パーティー 彩香 そして3度めの出会い
この後、2人はパーティーに出て、その後一週間出会わなくなります。
原作では、その後もアンナとマーニーとの交流がまだ何度か続くのですが、映画ではマーニーとの別れが訪れる前にマーニーがこの世の人物では無いということが明確にされます。
杏奈はパーティー翌日に湿地屋敷を訪れますが屋敷は無人。それに草ぼうぼうで、昨夜パーティーが開かれた時の姿とはまるで異なります。
そしてパーティーから一週間後に彩香が登場し、杏奈はマーニーの日記の存在を知ることとなります。
杏奈の口から「マーニは私が空想で作りあげた友達」と言わせるのは原作も映画も一緒ですが、映画ではマーニーとの別れの前に言わせているのが異なります。
演出としては、原作よりもミステリアスな展開ですね。
マーニーとは一体誰なのか?観客の関心はその一点に集中します。
サイロへ
次に杏奈とマーニーと出会うシーンは霧の中。杏奈の空想の中だという印象が強いシーンです。映画で流れる音もおどろおどろしくて、すこし怪談物のような印象すら覚えます。
杏奈は、自分が養母の佐々木夫妻から「やっかいもの」だと思われていること(彼女の誤解ですが)、佐々木夫妻が国から養育費をもらっていることをマーニーに告白します。
ここで養育費の書類がスクリーンに映りますが、平成24年度の書類でした。仮に劇中の年が26年だとすると、杏奈は2年前、つまり10歳の時に養育費の存在を知ったのですね。*1 この書類を杏奈は小学校6年の冬に見たようですので、つまり養母との関係がギクシャクしてから半年のようです。
養育費をもらっているからといって、杏奈が養母から愛されていないという理由にはならないとマーニーが指摘しますが、杏奈は「ふつうの子はもらっていない」ことにこだわります。
映画では杏奈が養育費の書類を盗み見た直後に養母が帰宅して杏奈に色鉛筆をプレゼントするシーンがありますが、どうせ養育費で買ったのだと思うと杏奈は複雑な心境だったのだろうと察することができます。
一方、マーニーはマーニーで、自分が孤独に感じていることを杏奈に告白します。
杏奈はマーニーが羨ましいと言い、マーニーは杏奈が羨ましいと言う。
2人は「私達、まるで入れ替わったみたい」と言って笑い合いますが・・・・私、劇場で最初にこのシーンを見た時は「きっとマーニーは何らかの怨霊で、杏奈の体と入れ替わろうとしているんだ!」と勘違いしてしまいました。。。
そういえば、幼きころの杏奈が持っていた人形はなんだかマーニーに似ていた気がします。
人形が杏奈の体を手に入れて人形の体と入れ替わろうとしている!
杏奈逃げてえええっ!!
・・・そう思っていた時期が私にもありました。
しかもマーニー、空飛んでるし(笑)
マーニーが崖から空中に足を踏み出すのも、映画独自の演出です。
さてさて。
2人はその後、杏奈の提案でサイロへ向かいます。サイロが怖くないということを確かめに行くのが目的ですが、ここも原作からは少し改変されているようです。
【原作】
- アンナとマーニーは別々に風車小屋に向かい、偶然風車小屋で出会う
- アンナが風車小屋に向かった理由は、風車小屋なんて怖くないと後でマーニーに言えるようになるため
- マーニーが風車小屋に向かった理由は、勇敢になろうと思ったため
- アンナが風車小屋に入ると、上に既にマーニーがいることに気付く
【映画】
- 杏奈とマーニーは2人でサイロに向かう
- マーニーが杏奈を「和彦」と呼ぶのは、映画のオリジナル要素
- 彩香が登場して「日記の続きを見つけた」というのは映画のオリジナル要素
映画の演出では、原作よりも一層ミステリアスなシーンに改変されています。
まず印象的なのは、マーニーが杏奈を「和彦」と呼ぶ点です。マーニーの目には杏奈が見えておらず、かわりに和彦の姿が見えているようです。
まるでマーニーの過去の記憶を、未来からきた杏奈がのぞいているかのような・・・。
ここで彩香が登場します。彼女はマーニーの日記の続きを見つけたと言いますが、彼女の目にはマーニーは見えていなかったようです。
ここで画面がぐっと引くのですが、杏奈のいる場所からサイロまでの何十メートルもある距離の中にマーニーの姿は見当たりません。
杏奈がサイロに入ってマーニを見ると、なぜか彼女はさっきまで持っていなかったコートをかぶっています。これは和彦のコートのようです。
杏奈は下に降りようと言いますが、マーニーは下に降りることを怖がり、そのまま2人は眠ってしまいます。
そして杏奈の夢の中で和彦がマーニーを迎えに来て、杏奈が目を開けるとマーニーの姿がもうありません。
マーニー、大好きなマーニー!
あなたまでもが私を置いていってしまった!
死んだ母や、おばあちゃんのように!
盗んだバイクで走りだす杏奈。泣きながら坂道を大爆走します。
ここも映画独自の演出が入っています。
杏奈の夢の中で和彦(原作のエドワード)がマーニーを迎えに来て、杏奈を置いて消えてしまうというのは原作も映画も一緒です。
原作者の意図としては当然このエピソードはアンナが孤児になった点と重ねあわせているものだと思いますが、原作ではこれを直接的に母や祖母がアンナを残して死んだことに重ねあわせるという書き方はしていませんでした。
原作ではここまでのエピソードがある程度のリアルなイメージを持って描かれているのですが、映画ではマーニーがこの世の人ではないということを既に観客が知っているという点も大きな違いですね。
そして物語はクライマックスを迎えます。
*1:23年に発行された24年度の養育費に関する書類のようです
思い出のマーニー 感想と考察 9 (マーニーとの出会い~3つの質問)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
マーニー登場
気が付くと、岸辺にボートがおいてあります。マーニーのボートです。
ちなみにこのボート、マーニーの誕生日に買ってもらった新品のようです。
ロウソクが灯っているのは、映画のオリジナル設定ですね。たしかに夜の岸辺では、明かりがないとボートには気づかないかもしれません。
原作では「みがきあげたクルミ色」となっていましたが、映画では青色のようです。あと、例の錨が見当たらないですね。
大胆にもボートに乗って湿地屋敷に向かう杏奈。
でもそういえば、マーニーがボートを持ってきたとなると、マーニーはどうやって湿地屋敷に帰ったのでしょうね。道から帰ったのかな?
ロウソクが灯っていたので、ボートが岸辺に置かれてからはそう時間が立っていないように思えます。七夕祭りの開始が午後7時だとすると、杏奈が岸辺に来たのは7時半くらい?
時系列にするとだいたいこんな感じでしょうか?
きっとマーニーが湿地屋敷について、冷たいジュースでも飲んでいた頃に杏奈が来たのだと思います。ちなみに帰りも杏奈を送るためにまた岸辺までボートで一往復したので、この日はマーニーもクタクタになって夜もグッスリ眠れたのではないでしょうか?
ここでトラブル発生。オールが動かなくなります!
これも映画のオリジナルイベントです。
さて、果たしてマーニーが幽霊なのか?幻覚なのか?タイムスリップなのか?という疑問がありましたが、映画では幽霊説を取るのでしょうか?
とりあえず幽霊ポイント+1とします。
マーニーとの出会い。杏奈は思わず「あなた本当の人間?」と発言しますが・・・これ考えてみると凄い発言ですよね?
相手が可愛いマーニーだと「あなたはまるで夢のような人だ」というニュアンスに感じて問題ないのですが、もしマーニーの容姿が「信子」だったらどうなるのでしょう?
杏奈「あなた本当に人間?マジで?」
信子「・・・。」
あまり、深くつっこむのはヤメましょう。
さて、杏奈とマーニーはすぐに仲良くなり。マーニーはお互いの存在を「永遠に秘密」だと言い出します。
ここもちょっと原作と違いますね。
まず原作ではアンナはマーニーに対しても最初は人見知りな態度をとります。
角川版 P79
アンナは、ぷいっと背中を向けて言った。「無理することないよ」
興味も無いようです
角川版 P79
わたし、この不思議な子のこと、知りたいのかな?
アンナがマーニーを好きになるのは、次のシーンが最初です
角川版 P82
「ええ、もちろん。あなたのために、わざと置いておいたの。でも、まさかこげないとは思わなかったわ!」ふたりは暗がりの中でクスクス笑いあった。アンナは急に、このうえなく大きな幸せを感じた。
岸辺にあったボートが、マーニーが自分の為に用意してくれた物だとわかって嬉しかったんですね。
しかし映画の杏奈はすぐにマーニーが気に入った様子です。「永久に秘密」だと誓い合うふたり。
この「永久に」というセリフも映画で付け足されたものですね。女の子が好きそうなセリフなので、きっと観客へのサービスなんでしょう。
それにしても気になるのは、湿地屋敷に沢山生えていた雑草がキレイになくなっていることですね。
この日に草刈りでもしたのでしょうか?
マーニーとの出会い2回め
杏奈とマーニーは再び湿地で出会います。杏奈はマーニーにボートの漕ぎ方を教えてもらいます。
ここでお互いに3つずつ質問しようとマーニーが言い出します。
原作では質問はそれぞれ以下のとおりでした。
【マーニー】
- アンナはなぜここに来たの?
- アンナはひとりっ子?
- ペグさん夫婦の家での生活ってどんな感じ?
- アンナの家はどこにあるの?
【アンナ】
- マーニーは何人兄妹?
- プルートって誰?
- プルート以外に怖いものある?
・・・気のせいでしょうか?マーニーは4つも質問しています。
じつは、アンナがペグさん夫婦について答えられなかった(ど忘れ)ので、そのかわりに4つめの質問をしたのです。
ちなみにプルートってのは、マーニーが飼っている犬の名前ですが、この犬小屋は屋敷の表にあって、マーニーはこの犬が嫌いな様子です。
ペグ夫妻のことが思い出せず、マーニーが消えてしまうのは映画と一緒です。同時に、マーニーからはアンナが消えたように見えていました。
映画では以下の質問でした。
【マーニー】
- あなたは何故この村にいるの?
- おばちゃんって誰?
- 大岩さんとこの生活はどんななの?
【杏奈】
- あなたはあのお屋敷に住んでるの?
- 兄弟は何人?
・・・気のせいでしょうか?杏奈は2つしか質問をしていません。
そうです。大岩さんのことが思い出せないというイベントのせいで、3つめの質問ができなかったんです。
それにしても、この「大岩さんを思い出せない」のって、なんですかね?
現実世界を全て思い出せないのであれば、なんとなく解釈のしようがあるのですが、杏奈は小さいころの話や、養母の話はふつうに思い出せる様子です。
思い出せないのは大岩さん夫妻のこと限定のようです。
これについて原作・映画ともに明確な説明があるわけではないし、この映画の主題とも離れたところにある疑問なので、皆さんの自由な解釈にお任せします。
思い出のマーニー 感想と考察 8 (映画冒頭~ふとっちょブタ)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
※太っちょブタの信子に興味があるかたは、この記事とあわせてこちらを参照することをおススメします
ではでは。本題に入る前に、改めて映画の内容を時系列に追って、感想を書いて見たいと思います。
映画は思い出しながら書かざるをえないので、ちょっと前後関係やセリフがあやふやかもしれませんがご容赦を。
冒頭
なにやら公園での写生大会からスタート。杏奈はベンチでスケッチをしています。先生から「ちょっと見せてみろ」と言われるのですが、その一言でいきなり具合を悪くする杏奈。
えええ〜、ちょっとデリケート過ぎ(笑)
この映画では杏奈のヒットポイントはまるでスペランカーのようですね。
そして例のキャッチコピー
この世には目に見えない魔法の輪がある。
輪には内側と外側があって、私は外側の人間。
この言葉、この映画ではここしか出てこないですね。
原作では作中何度か出てきて、最後はアンナが輪の内側に入って終わります。
喘息の発作で倒れた杏奈、家で医者に見てもらいますが、ここで養母に「またお金かかっちゃったね」との嫌味を言います。
これは例の養母へのヒントです。
養育費の存在に気づいている杏奈。
養母に「私は養育費について知っているのよ!お願い本当のことを言って!」と訴えているのですね。
この段階で、実は養母も「杏奈は養育費について知っている」ということに気づいています。
しかし、ここで「養育費に気づいていたのね!ごめんなさい杏奈!」と言ってしまうと、ここで映画が終わってしまいます。
でもそんなことをしたらジブリが潰れてしまいかねないので、とうぜん養母は知らんぷりを決め込みます。謝罪は映画の最後まで待っておこうと。養母はとても配慮あるかしこい人物のようですね。
お医者さんに「あの子いつもふつうの顔なんです」と訴えますが・・・うーん、ふつうの顔って杏奈の主観なので、ここでは客観的に「あの子いつも無表情なんです」と言ったほうが良い気がします。
友達が杏奈の忘れ物を届けてくれますが、どうやら杏奈は学校でも孤立している模様。
特急電車に乗って釧路へ向かう杏奈。原作では養母が別れのキスをするのですが、映画ではミカンを杏奈に手渡します。
ここで杏奈が養母について一言「まるでメェメェうるさいヤギみたい」
うおー、杏奈ちゃん。原作と比べてもずいぶんと反抗期なようですね。まるで尖ったナイフです。触るものみな傷つけちゃう女の子なんでしょうか・・・。
原作では、アンナは基本的に養母を愛している少女なのですが、映画のこのシーンから受ける印象としては養母を生理的に毛嫌いしているように見えます。
おそらく、映画の最初の杏奈と、最後の杏奈との違いをクッキリと浮き彫りにするために、あえて極端な性格にしたのかもしれませんが、これはちょっと賭けですね。
現にマーニーに対して否定的な意見を持つ人には、こういった杏奈の性格が受け付けられないという人も多く見られるようです。
まあしかし、原作は300ページ超もあり、ゆっくりと杏奈の人柄について描写出来るのに対し、映画は100分しかありません。
ここで「思い出のマーニー」のタイトル。そういえば、どうして「思い出」のマーニーなんですかね?これは後で考えましょう。
湿地に到着
湿地に到着する杏奈。大岩夫妻が暖かく迎えます。大岩夫妻、原作でも善人でしたが、輪をかけて朗らかな人たちのようです。
しかしここでまた微妙な発言「他人の家の匂いがする」
原作では「ふんわりあたたかくて、甘くて、どこか懐かしい匂い」でしたから、ここでもセリフが改変されているようです。
ここで観客は、すこし杏奈ちゃんの将来が心配になってきます。
道を歩きながら陽気に歌を口ずさむ杏奈。
でも道端で自転車にあうと、秘技「ふつうの顔」モード炸裂。
このシーン、杏奈の横顔しか見えませんが、絶対に「ふつうの顔」をしているのは間違いありません。
杏奈は早速湿地に出かけますが、ここで湿地屋敷を発見
衝撃を受けた顔をする杏奈。
私、ずっと昔から、このお屋敷を知っていた気がする・・・。
そうです。例の写真によって幼いころに刷り込みを受けていたんですね。
思わず湿地屋敷に行ってしまい中をのぞきますが、無人の様子。気が付くと満潮の為に帰れなくなります。
でも杏奈ちゃん、湿地側から帰らずとも、表側から道路を歩いて帰れば良いんじゃないですかね?
しかし、この時はまだそこまで頭が回らなかった模様。
とうぜんこのお屋敷にも道路に面する表側があるのですが、この時は「こっちが表側」だと思いこんでいたのです。
原作では、あとのシーンでマーニーにツッコミを食らったりしています。
角川版 P163
「表って?」アンナにはなんのことかわからなかった。「船着き場に面しているほうが表じゃないの?」
砂の上に花だんの絵をかいていたマーニーは、その手を止めてふりむき、びっくりしてアンナを見た。「あっちが表?そんなはずないでしょ、ばかね。(略)」
マーニーは声をあげて笑った。マーニが言ったとおりのことを考えていたアンナは、はずかしくなった。
うーん、マーニー、容赦ありません。
太っちょデブ登場
なんだかんだで、杏奈は七夕祭りに出かけます。近所に住む信子という女の子と一緒です。信子、杏奈に質問しておきながらその答えを聞く前に別な友達と会話を始めたりしてあまり感じが良くない女の子ですね。
それにしても、この信子って女の子、最初郵便局のシーンでも登場しましたがフケすぎてて風格がありすぎて全然中学生に見えません。
しかしこのシーンで「あぁ、女子中学生だったのね」とビックリしました。
短冊に願いことを書く杏奈
「毎日ふつうに過ごせますように」(でしたっけ?)
またまた出ました。キーワード「ふつう」
でもふつうって何ですかね?
杏奈は魔法の輪の外側にいて、ふつうじゃないってこと?
魔法の輪の内側にいる人達のように暮らしたい・・・そういう意味なのでしょうか?
ここで事件発生。信子が杏奈の短冊を奪って勝手に見てしまいます。
ここで観客にヒント。杏奈の目が青くて綺麗だと信子がいいます。
カンの良い人は、ここで杏奈とマーニーのつながりにピンと来るようですね。
でも、ジブリはどうしてこんなヒントを観客に与えたのでしょう?
このセリフで杏奈とマーニーの繋がりがバレるかもしれないというのは、ジブリは百も承知だったはずです。
この映画のキモは「マーニーは何者か?」という秘密にあるように思えます。一見は。
しかし、この映画の真のテーマは、実はマーニーの正体とは関係のない離れた別な所にあるのではないかと私は感じます。
なのでここでマーニーの秘密に気づかれたとしても別によかった・・・というジブリの判断なのかもしれません。いや、むしろここで気づいてもらいたかったのカモ?
一方、杏奈は激おこプンプン丸。
「ふとっちょデブ」と信子を罵ります。
でも、ちょっと杏奈ちゃん。いきなりその発言はちょっと的確すぎ酷すぎではないですか?
まぁ「ドドリアさん」と言わなかっただけマシではありますが・・・。
信子はムッとして「ふ〜ん、ふつうの意味がわかったわ。けどね、アタナはアナタのままよ」
と、ちょっと意味の分からない反撃。
これは後ほど考察しましょう。
けれど、流石に杏奈の1歳年上です。すぐに「はい、これでオシマイ」と仲直りを求めますが、杏奈は信子の手を振り払い、湿地に向かって爆走するのでした。
ここで原作を振り返りたいのですが、原作の信子は「サンドラ」という名前の女の子です。
原作のサンドラは映画よりもちょっと性格が悪くて、アンナと一緒にトランプをしても「イカサマ」をするような子です。
アンナのことを「ママ、わたしあんな不細工なでくのぼう見たこと無い」とか言っちゃいます。性格悪っ!
それでもお店でサンドラに出会った時、アンナはサンドラに愛想の良い顔をしようとするのですが、サンドラはいきなり戦闘モード。アンナを挑発します。
アンナもついにブチ切れ「太ったブタ」と的確な指摘暴言を吐くのでした。
「ドドリアさん」と言わなかったのは、きっとまだ当時のイギリスにはドラゴンボールが上陸していなかったのでしょう。
ここでサンドラが放った反撃の一言
角川版 P66
「あんたがどんなだか教えてあげる。あんたの見かけはね、あんたの見かけは−ただの、あんたそのものよ!へっ!」
「へっ!」って(笑)
さて映画に戻りますが、浜辺についたアンナ。目から大粒の涙をこぼします。
「わたしは私のとおり。不機機嫌で、不愉快で、私は私が嫌い」
マントラの如く「わたしは私のとおり、わたしは私のとおり、わたしは私のとおり」と繰り返す杏奈の痛々しい姿が印象的なシーンです。
自分が嫌いだという杏奈。はたして自分をどのような存在だと思い込んでいるのでしょう?
もし杏奈が、自分を「太ったブタのような存在だ」と思っていたと仮定しましょう。
すると、一見意味不明だった「あんたは、あんたに見える」という言葉が、「あんたは、太ったブタに見える」と置き換えられることに気づきます。
そして杏奈が自分をどう思っているのかで、この言葉は更に破壊力を増します。
もし自分を「ゴミのような存在」だと思っていたら
↓
「あんたは、ゴミのように見える」
「ウジ虫のような存在」だと思っていたら
↓
「あんたは、ウジ虫に見える」
信子の言葉は鏡がレーザー砲を跳ね返すがごとく、杏奈の暗黒面を杏奈自身にぶつける最強の破壊兵器だったのです。
また、映画の信子は、原作のサンドラよりも大人な感じがするため、余計に杏奈の痛々しさが際立ちます。
信子の言葉は自分を移す鏡。もし杏奈が自分自身を「親から見捨てられ、血の繋がりのない養母に対して感謝も無く、友達からも嫌われて、孤独で、優しくしてくれる人にもすぐにキレるような協調性のない人間のクズ」だと思っていたら…。その破壊力は大変なものでしょう。
アンナは原作では自分をこのように思っています。
角川版 P66-67
みにくくて、まぬけで、短気で、ばかで、恩知らずで、礼儀知らず・・・だから、誰にも好かれない。
かなり自虐的です。
ちなみに原作では、「太ったブタ」とサンドラを罵るのは涙のシーンよりも後になります。
原作では、ペグのおばさんがマーニーのせいでサンドラの家まで遊びにいけなくなったと思い込んだ時に涙をながします。
角川版 P55-56
きょうペグのおばさんがサンドラのうちに行かないのは、わたしのせいだ。そしてサンドラ、あの太ったブタ娘は、わたしのことを「不細工な、でくのぼう」なんて言った。ペグのおばさん−やさしいペグのおばさんは、そんなせりふは聞きたくないとはねつけて、わたしのことを「このうえなくいい子」だと言ってくれた。でもおばさんは、わたしのせいでスタッブズさんのところに行かないんだ。そんなのばかみたい。おばさんは、ばかで、まぬけだ。
(略)
アンナは壁にかかった刺繍の額を見て、それにも腹をたてた。「よきものをつかめ」って言うけど、よきものなんてどこにもない。だいたい、これってどういう意味なんだろう。錨って、よきものなの?(略)」
アンナは額を裏返しにして、窓辺に歩みよった。床にひざまずいて、夕焼けに赤くそまった畑を見はらすと、みじめな気持ちが熱い涙になってほおを伝った。「よきもの」なんてどこにもない−−−いちばんよくないのは、このわたしだ。
「よきものをつかめ」というのは、アンナの部屋にかかっている刺繍に錨の絵と一緒に書かれている言葉で、この小説では度々登場する言葉です。
映画には無いエピソードですが、マーニーとの別れの後、湿地屋敷でマーニーの古くなったボートを発見したアンナは今の所有者のリンジー家に断りなく、このボートの錆びた小さな錨を盗むシーンがあります。
壁に飾られた「よきものをつかめ」と書かれた刺繍を裏返しにして、窓辺から夕日を見て涙する杏奈。
原作ではあと何回か泣いているシーンが有りました。
ここまでの原作と映画の杏奈の描写の違いをまとめてみました。
原作のアンナは内向的な少女という印象でしたが、映画の杏奈は中二病全開繊細で心に影を持つ危うい少女に描かれているようです。
思い出のマーニー 感想と考察 7 (映画の2回目を見ました)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
さてさて。ここまで原作について長々と説明してしまいましたが、すっかり原作にハマった私は、再び映画館に足を運びました。
映画の内容をもう一度振り返って、原作と比較してみたいと思ったのです。
それに、一回目では気づかなかったことを発見するかもしれません。
ただし、この時点での私の印象としては
映画 << 原作
です。映画は原作に比べてもう一歩だった、そういう印象がありました。
さて、再視聴・・・。
ふ、ふ、ふおおおおおおおおおおおっ!!
面白い!一回目とは全く別な映画に見えました!
そこには確かに「私の戦闘力は53万です」と話すフリーザ様がいたんです!!
なぜ二回目が面白かったのか?
なぜ二回目が面白いと感じたのか。
まず「すでにマーニーの秘密を知っていた」ということがあります。
マーニーの秘密は、この映画のキモと呼べる部分で、最後にマーニーが祖母だったという事実を知って、一種のアハ体験を観客は味わうことができます。
しかし、逆にそれによってマーニーの正体にばかり観客の関心が向かってしまい、それ以外の部分や各キャラクターの心情などに関心が向きにくいという弊害があります。
既にマーニーの正体を知っていたので二回目の視聴ではまるで霧が晴れたかのようにそれまで見えていなかった物が一気に見えてきた。
だから一回目と違った感動が味わえたんだと思います。
この映画はヒットしない宿命にある
うーむ。思い出のマーニー。私にとっては歴代ジブリの中でもブッチギリのトップといえる作品になりました。
しかし考えてみると、先ほど述べた理由により、最初の視聴では絶対に本当の感動を味わえない構造になっている映画だと言えます。
マーニーの正体はこの映画のキモ。しかしマーニーの正体を知ることが、この映画の面白さを知ることではないのです。
けれどもマーニーの正体は最後に明かされるので、最初の視聴ではこの映画の本当の面白さを知ることができない・・・。
ネットの感想を読むと「感動した」という観客も沢山いるのですが、たぶんその人達も2回めの視聴ではまるで違ったさらなる感動を味わえるのではないかと思います。
あと、もう一つの重要な、ある意味致命的な問題。
それは、この映画は登場人物に対して共感できるかどうかで面白さが全く変わってくる映画という点です。
ラピュタやナウシカと違って、頭を空っぽの状態にしても楽しめる娯楽作ではありません。楽しむには登場人物の心情を察することが必要です。
この映画を何回みてもつまらないという人も絶対にいます。
そういう人も、当然いるでしょう。
この映画は再評価される宿命にある
しかし、同時に、この映画は見る度に感想が変わる「万華鏡」のような作品であるとも言えます。
ぶっちゃけ、最初にこの映画を見た時は「この映画は、中学生以下の子供にはおすすめできないなぁ」と思いました。なぜならば、話が少しむずかしくて彼らには面白くないだろうと思ったからです。
だけど、今は「子供にこそこの映画を見て欲しい」と思います。
なぜなら、将来彼らがこの映画を再度見る機会があれば、絶対に子供の頃とは違う感想を持つだろうからです。気づかなかった感動を再発見するだろうからです。
それってなんだが、貴重な体験じゃないですか?
さてさて、このブログにマーニーを書き始めてから、ながながと前置きを続けてしまいました。すみませんここまでの記事は全部前置きです。
いよいよ、このブログの本題。私が感じたマーニーの感想に入りたいと思います。
わかりやすくドラゴンボールで例えると「もうちっとだけ続くんじゃ」という感じです。
もうちょっとだけお付き合い下さい。
思い出のマーニー 感想と考察 6 (原作の後半、祖母への憎しみ、魔法の輪)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
原作ではどのように物語が進むのでしょうか?
以下にその概略を示します。
【原作の後半】
アンナ、リンジー家を遠くから観察するも、リンジー兄妹につかまる
↓
アンナ、リンジー家と親しくなる
↓
アンナ、浜辺で「マーニー」の文字を発見
↓
アンナ、プリシラからマーニーの日記を見せてもらう
↓
アンナ、マーニーのボートの存在を知り錨を盗む
↓
アンナの養母、ロンドンから湿地までやってくる
↓
アンナの養母、ミセス・リンジーとお茶。アンナの過去を語る。
↓
アンナと養母の和解
↓
アンナ、錨を盗んだことをミセス・リンジーに謝罪
↓
ギリー(映画の久子)再登場。マーニーの日記を読み、マーニーの過去を語る。
↓
ミセス・リンジー、アンナがマーニーの孫だと気付く
↓
アンナ帰宅(の直前で物語は終わる)
原作だけのエピソードとして、マーニーのボートが湿地屋敷で発見されます。そのボートの中に錆びた錨があるのですが、アンナはそれが無性に欲しくなり、リンジー家に無断で盗んでしまいます。
ギリーは映画の久子にあたります。ミセス・リンジーの友人で、白髪の老人です。そしてマーニーの友人でもありました。
大きな違いとしては、映画では養母が持ってきた幼いアンナが持っていたという湿地屋敷の写真を見て、アンナは自分がマーニーの孫だと気づきますが、原作ではミセス・リンジーが気づきます。
もう一つの違いは、アンナと養母の和解は、映画ではマーニーの過去をしった後ですが、原作ではその前ですね。ドラゴンボールで例えるところの完全体に一足早くなったといえるでしょう。
原作でのアンナと養母
原作でアンナがどのように描写されているかについて説明します。
映画のアンナは養母のことを「メェメェ鳴くヤギみたい」と呼んでいます。養母との心の亀裂が若干大きめな印象です。
原作でのアンナは心にわだかまりを持ってはいるものの、大切にも思っているという描写がされています。
角川版 P22
「つまるところ、やっぱりあの人のことをほんとのお母さんみたいに、大事に思っているんだよね。そうだろ?」
「もちろんです!」アンナは言った。「それ以上です」
養母へ手紙を書く時にも以下の表現があります。
角川版 P25
アンナはようやく「愛をこめて」ではなく「何トンもの愛をこめて」と、書き(略)
意外と、養母との関係は良好のようですが、複雑な心境もあるようです。
角川版 P25
いつもいつもミセス・プレストンに対してやさしい気持ちでいられるか、アンナは自分でもまだわからなかった。
ミセス・プレストンは養母です(ミセス・リンジーとの違いに注意)
しかし、映画版と同様に例の「養育費」の問題がアンナを苦しめます。
マーニーに自分の苦悩を打ち明けるアンナ
角川版 P151
「(略)あのふたりが私の世話をして、いろいろやってくれるのは、わたしを自分達の子供みたいに思ってくれているからだと思っていた。でもちょっと前に、知っちゃったんだ。(略)」「あの人たち、わたしの世話をするためにお金をもらっているって」
お金のことを直接は養母に聞かないアンナ。しかしそれとなくヒントを養母に与え続けます。
角川版 P152
「それからも、お金のことを何度もきいてみた。(略)ミセス・プレストンがほんとうのことを話すチャンスを、できるかぎりつくってあげたの。でも話してくれなかった(略)」
お金のことを知ったアンナは「もう前と同じようにはいかなかった」と告白します。
角川版 P153
「ミセス・プレストンには、どうしてもほんとうのことを話してほしかったの。わたし、あんなに何度もチャンスをあげたのに」
どうやら、アンナが養母を心の中で愛しているのは間違いないようです。しかし、お金のことを知ったせいで、それを養母が隠していると感じて激しく苦悩しています。
母と祖母への憎しみ
映画と同様に、母と祖母への憎しみを感じているアンナ。
角川版 P149-150
「ううん、おばあちゃんなんてきらい。それにお母さんもきらい。みんな大っきらい。それだけよ・・」
マーニーは困ったような目でアンナを見た。「だけど、お母さまが事故でなくなったのは、お母さまのせいじゃないわ」
アンナはけわしい顔になった。「だってお母さんは死ぬ前に、わたしを置いていったんだよ」アンナは言い返した。「旅行に出ちゃったんだから」
(略)
「おばあちゃんもわたしを置いていった。出ていったの。もどるって約束したくせに、もどってこなかった」
(略)
「わたしをひとりぼっちにするなんて、ひどい。ずっとそばにいて、面倒を見てくれなかったのもひどい。置き去りにするなんて、ずるいよ。ぜったいに許せない。おばあちゃんなんて大きらい」
激おこのアンナ。置いて行かれることに、かなりのトラウマがあるようです。
思い出のマーニー 感想と考察 5 (マーニーは幽霊?幻想?本物?)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
それにしても、マーニーは一体何者なんだったのでしょうか?幽霊?幻想?それとも?
誰もが最初に思いつくこと、それはマーニーは祖母の幽霊だった!ということです。
映画での描写
映画ではマーニーの不思議な描写が多々あります。
- マーニーの湿地屋敷は昼間は無人
- アンナが乗ったボートのオールが動かせなくなる
- マーニーがアンナの前にあらわれるのは、夜か幻想のなかのみ
- マーニーが崖から足を踏み出して、いつのまにか地面に着地しているシーンがある
- マーニーが登場するシーンでは、背後におどろおどろしい音が流れる
- マーニーの前では、大岩夫婦のことが思い出せなくなる
- アンナがマーニーのことを忘れてしまうシーンがある
- アンナがマーニーを部屋に誘うと、マーニーは湿地屋敷から離れられないと言う
うーむ、マーニーは一体何者なんでしょうか?なんだか幽霊のような気がします。
特に、マーニーが夜しか現れなかったり、湿地屋敷から離れられないのは、マーニーがまるで地縛霊であるかのような表現です。
原作での描写
では、原作ではどのように描かれているのでしょうか?原作でのアンナとマーニーの交流について、以下にリストアップしてみました。
うーむ、映画ではマーニーとの出会いは全て夜または幻想らしき世界で「いかにも幽霊」的な印象を受けたのですが、原作では朝から夜までいつでも出会っており、特に時間制限はないようです。
また出会う場所ですが、原作では全て湿地の近くではあるものの屋敷から結構離れた場所まで行くことができるようです。
では他の点ではどうでしょうか?
原作では、次のような描写があります。
角川版 P78
ふたりは声をあげて笑い、おたがいにさわってたしかめあった。うん、本物だ。服は軽い絹みたいなものでできているし、さわった腕もあったかくてしっかりしている。どうやら女の子の方も、アンナがまちがいなく本物の人間だと納得したらしい。
角川版 P85
「あなた、幽霊みたいよ。そこに、そんなにじっと立っていると。アンナーアンナ、あなたって、まちがいなくほんとうにいるのよね?」(略)女の子はアンナのほっぺたにさっとキスをした。「さあ、これであなたがほんとうにいるってわかったわ。早くボートをおして。また幽霊にかわっちゃう前にね!」
原作ではマーニーとアンナがお互いに相手を「幽霊ではないか?」と疑っていますが相手に触ったり、キスしたりすることによって「相手が本物の人間だ」と納得している様子が描かれています。
ほかには以下の描写もあります。
角川版 P85
女の子が言ってくれなかったら、忘れるところだった。ということは、やっぱりあの子は本当にいるんだ!
ここでもマーニーが実在することが印象付けられます。
しかし一方で、マーニーが実在しないのではないかと思えるような描写も少なくありません。一番最初に読者が「あれ?」と気付くのは次の描写だと思います。六回目の出会い、キノコ狩りから帰宅するところのシーンです。
角川版 P154
「変な子だ!変な子だ」アンナに気づくなりサンドラがはやしたてた。「うちのお母さんが、アンナは変な子だって言ってたよ。浜辺でブツブツひとりごとを言ってるって。
サンドラというのは映画の信子(ふとっちょブタ)です。映画では少し大人びた言動でしたが、原作では意地悪な子どもとして描かれています。でもアンナ、ひとりでブツブツ言うなんて、なんだかちょっとアブない人のようですね。
あと不思議なのは次のシーン。アンナがペグ夫妻(映画の大岩夫妻)の事を考えると、アンナからはマーニーが、マーニーからはアンナがお互いに見えなくなってしまうという描写があります。
角川版 P100
アンナはもう一度試した。おじさんとおばさんのことを思い出さなくてはいけない。(略)ー いない。マーニーが消えた!(略)うしろの方から、マーニーのびっくりしたささやき声が聞こえてきた「アンナ!どうしたの?どこにいるの?」
この後も、ペグ夫妻についてアンナが「思い出せなくなる」描写が度々続きます。
あと不思議な描写としては、アンナとマーニーの話がかみ合わなくなるシーン。
角川版 P171
「忘れちゃった?これ、きのうわたしたちがここへ置いて行ったでしょ?」
「それはおとといの話じゃない。それとも、その前の日だった?」アンナは自身がなくなってきた。この花は少しも、しおれていないように見える。マーニーの言うことが正しいのかもしれない。
角川版 P171
けれど、同じことがまた起こった。約束の場所で何時間も待ったあげく、家へ帰る途中でマーニーがあらわれると、アンナは腹がたった。(略)「きょうは家をつくる約束だったでしょ?」(略)「約束なんてしていないわ。なにをそんなに怒っているの?」
ふしぎな描写ですが、これが具体的に何を示唆しているのかは、ちょっとわかりません。
ほかに気づいたのは、マーニーが湿地屋敷から聞こえるベルの音に気づいて食事の為に帰宅するシーンがあるのですが、その音がアンナには聞こえません。
ただしそれ以外は、このあとマーニーとの別れまで、特に不思議な描写はないようです。
ここまでをふりかえると、映画ではマーニーは幽霊のようでもあり、原作では実在の人物でもあるようにも幽霊であるようにも思えます。
マーニーが実在の人物であるばあい、考えられるのはアンナとマーニーが時空を越えて本当に出会っている・・・つまりタイムスリップ説です。
マーニーが実在することを証明する手段として、マーニーと別れたあともマーニーの痕跡が残っていれば、それはマーニーが実在するという証拠になりそうです。
真っ先に思いつくのが「パーティーでもらった花の代金をアンナが所持しているか?」ですが、作中ではアンナは代金の受け取りを拒否しています。
かわりにバラの花をもらうのですが、バラの花もマーニーと別れる直前に水の上に落としてしまい失ってしまいます。
唯一残るのが、マーニーがアンナの靴にさしてあげたシーラベンダーの花で、これはマーニーと別れたあともアンナの靴に残っているのですが、シーラベンダー自体はアンナがそのへんで採集した花なので、夢遊状態のアンナが自分で靴にさした可能性も残されています。
マーニーは空想の友達?
幽霊説、タイムスリップ説ときてもう一つ残されているのは空想の友達説です。
つまり、すべてはアンナの妄想の世界、つまり夢だったという解釈です。
アンナは小さいころ、祖母のマーニーに育てられました。そして幼いアンナにマーニーが語った物語を、アンナは心の奥深くに記憶していました。
そして、湿地屋敷を見た時に、その記憶が蘇りました!
映画では、湿地屋敷を見た時のアンナの衝撃がありありと描かれていますね。原作でも次のような表現で語られています。
角川版 P30
そのとき、その屋敷が見えた・・・。
見えたとたん、これこそ自分がずっと探していたものだとわかった。
角川版 P31
屋敷を見つめていると、アンナの頭のなかにそんな絵が次々と浮かんできた。どれひとつとってもアンナの知らないことばかり。それとも、本当は知っていたのだろうか・・・?
角川版 P32
半分夢のような心地にひたっていると、前にもこれと同じことが起こったという不思議な感覚がひたひたとおしよせてきた。
じつは、原作のアンナも、マーニーと別れてからはマーニーを「空想の友達」として解釈しています。
思い出になっていくマーニー
リンジー家に出会うまで、マーニーはアンナの本当の友達でした。しかし、リンジー家と出会ってからはアンナのなかで変化が起こります。
角川版 P233-234
この前までは、マーニーが本物で、あの五人はそうじゃなかった。今では、あの五人が本物で、マーニーはちがう。それとも、変わってしまったのは、私のほうなんだろうか。
アンナは最初マーニーと出会うまえに、湿地屋敷を下見にきたリンジー家の人々を見かけています。その時、アンナは彼らを湿地屋敷の住人だと夢想するシーンがあったのですが、その後リンジー家の人々が姿を見せなくなったので「彼らは私の想像だった」と思っていたのです。
ここで、原作に登場する重要人物、リンジー家の人々を紹介します。
ミスター・リンジー
リンジー家のお父さん。普段は仕事でいないが週末にやってくる。優しい人格者。ミセス・リンジー
リンジー家のお母さん。こちらもとてもやさしい人。アンドルー
リンジー家の長男。14歳くらいの大きな男の子。アンナを捕まえる。ジェーン
リンジー家の長女。金髪のおさげの女の子。かしこくて大人っぽい。プリシラ
リンジー家の次女。茶色い髪の女の子。アンナよりも少し年下。映画の彩香。マーニーの日記を発見して、アンナをマーニーだと思い込む。マシュー
リンジー家の次男。ジョークが好き。ローリーポーリー
リンジー家の三男。まだ赤ん坊で、家族全員から愛されている。
アンナはすぐにリンジー家の人々と仲良くなり、一方でマーニーのことは忘れて行きます。
角川版 P235
アンナは、今ではマーニーのことをほとんど思い出せなくなっていた。(略)でも昼のあいだは、マーニーは思い出のまぼろしでしかなかった−−−そして、すぐに、まぼろしでさえなくなってしまった。
どんどんマーニーのことを忘れていくアンナ。
角川版 P241
「見て、アンナ、すごいでしょ。この家にもともとあったの。ふつうのカウベルの二倍は大きいわ。入江の真ん中にいても聞こえるのよ。アンドルーが昨日試したの」
「入江の真ん中にいても聞こえるのよ」・・・ほんのつかのま、アンナは前にもどこかで、たしかにこの言葉を聞いたと思った。でも、どこで?・・・いつ・・・?思い出そうとすると、頭が真っ白になる。
このカウベルの音を聞いて、マーニーが湿地屋敷に帰っていくというシーンがあります。しかしもうアンナは思い出すことができません。ちょっと切ないですね。
マーニー再び
そんなある日、プリシラ(彩香)がアンナに何かを「砂浜においてきた」といいます。
角川版 P245
あなたのーあなたにつくってあげたの。いつもみたいにあそこに最後まで残って、見つけてくれると思ったんだ。きれいにできたよ」
「あした見るね」
「あしただと、なくなっている。満潮になったら、流されちゃうから」
(略)
「いったい、なんなの?」アンナはほほえんだ。
「あなたの秘密の名前」
映画を見た人はここでピンと来ますね。
角川版 P248
砂浜に着いたときには、もう潮がかわっていた。空はくもり、砂浜はうす暗く人気がなくて、昼間にクリケットをしたまぶしい場所とはまったくちがっていた。ほかの女の子が砂の上に書いたものを見るためだけに、こんなところまで来るなんてばかみたい、とアンナは思った。それでも、来たかった。プリシラのことが好きだったし、自分と秘密をわかちあいたいと思っていてくれることが嬉しかった。たとえ、その秘密が子供っぽいものだとしても。
水ぎわまで歩いていったとき、アンナはそれを見つけた。貝がらや海藻の切れはしがていねいに並べられ、ひとつひとつの文字を形づくっている。そうやって砂の上に書かれた名前は「マーニー」だった。
映画を見て、知ってはいたのですが、結構鳥肌のシーンです。幼いプリシラ(彩香)がなぜマーニーの名を知っているのか?
ここから再びマーニーについての物語が再開します。
ちょっとマーニーの正体からは離れてしまいましたが、マーニーの正体(祖母の幽霊か、幻影か、タイムトラベルか)については、後にまた考察する予定です。
思い出のマーニー 感想と考察 4 (ふつうの顔)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
前にもとりあげましたが、原作で登場する重要なキーワードに、アンナが時々見せる「ふつうの顔」があります。
アンナは何か動揺するようなことがあったり、空気に溶け込もうとするときは「ふつうの顔」をしようとします。でも上手にできないので他人には「無表情」に見えてしまうのですが・・・。
ちょっと目に付いた記述を抽出してみます。ページ番号は角川文庫版です。
角川版 P7
わたし、「ふつうの顔」をしているといいけど・・・どうか早く列車が出ますように。
角川版 P8
「ふつうの顔」をしていれば、うまい具合に誰にも話しかけられずに済むかもしれない。
角川版 P13
ブラウン先生は歩き回るのをやめ、アンナがベッドで「ふつうの顔」をしているのを、なにやら考えながら見つづけた。
角川版 P15
じゃあ、「ふつうの顔」はうまくいったわけだ。おかげでだれもアンナに気づいてもいない。
角川版 P27
突然子どもたちの声がして、アンナはびくっとした。(略)アンナは背中をまっすぐのばして、いつもどおり「ふつうの顔」をした。
角川版 P37-38
「ほんとうに、なにもしないのが一番好きなんです」アンナは力をこめて言った。(略)アンナは本気だとわかってほしくて、テーブルクロスを見つめ、できるかぎり「ふつうの顔」をしようとつとめた。
角川版 P42
もうたしかなものなんてどこにもない・・・・なにもかも、わけがかわらなくなる・・・・。アンナはまばたきしてから、さっきより大きく目を開けてもう一度見た。やっぱりない。アンナはすわりこんでしまった。それから、このうえなく「ふつうの顔」をして、わたしはひとりでやっていけるし、こわくもなんともないと自分に言いきかせながら、あごの下にひざを引きよせて両腕を巻きつけ、小包みたいにぎゅっと小さくなった。
角川版 P49-50
きっとその人たちも、ほかの人たちと同じく、うわべだけ愛想よくしてくれて終わるだろう。「外」にいるアンナのことを「中」から面白そうにながめ、自分たちと同じものが好きで、同じものを持っていて、同じことをするものだと決めてかかる。(略)そうなると、アンナのほうからその人たちを嫌うしかなくなる。(略)ずっと「ふつうの顔」をしたまま。
アンナ、ずいぶん沢山と「ふつうの顔」をしています。まるで忍者が土トンの術でも使うかの様に・・・。
あっピンチ!?いまだっ!『忍法、ふつうの顔っ!!』といった感じでしょうか? ニンニン
ところで「ふつうの顔」ってどういう顔なんでしょう?
他人からは「無表情」に見えるようです。新潮版では「つまらなそうな顔」と訳されていますが、私は「感情を他人に悟られることのない、ごく穏やかで自然な表情」だと解釈しました。それって「無表情」ということじゃないの?と思われそうですが、感情を出さないわけではなく、輪の外側にいる人がごく当たり前に見せている、自然な感情を表に出している顔なのです。
・・・上手にはできないのですが。
さて。この直後にマーニーとの出会いがあり、アンナは「ふつうの顔」をしなくなります。しかし例外的に、マーニーの前で一度だけ「ふつうの顔」をしました。
角川版 P172
アンナはそれを聞いて、なにも言えなかった。深く傷ついたし、腹立たしかった。マーニーと出会ってはじめて、アンナは「ふつうの顔」をした。
しかしこの後、マーニーとの別れまで、アンナは「ふつうの顔」をしません。
つぎに「ふつうの顔」をしようとしたのは、リンジー兄妹との出会いのときです。
アンナはリンジー兄妹に興味シンシンで遠くからリンジー兄妹を観察するのですが、逆にリンジー兄妹につかまってしまいます。
角川版 P225
アンナはちょっとじたばたしてから、動くのを止めた。(略)そのあいだじゅう、「ふつうの顔」をしていようとした。でもうまくいかなかった。(略)思わずにっこりしてしまう。
ここで注目するべきなのは、アンナが「ふつうの顔」をしようとして失敗してしまうことです。
それどころか逆に笑顔をみせてしまう。
この後、100ページほどリンジー家とアンナの交流が描かれますが、これ以降でアンナが「ふつうの顔」を作ろうとすることはなくなりました。
ことあるごとに「ふつうの顔」を見せるアンナ
↓
「許して!」「許す!」
↓
おもわずニッコリしてしまう
マーニーとの別れの前後で、明らかにアンナの性格が変わっているのがわかります。
もうそんなことはしなくても、アンナはふつうにふるまえるようになったからです。
どうしてアンナは『ふつうの顔』をしなくとも済むようになったのでしょうか?
それはまたあとで考察していきます。