思い出のマーニー 感想と考察 17 (読書感想1~2章)

※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※


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さてさて、もしこのブログを見続けて下さった危篤奇特な方がいるのであれば*1「原作も読んでみようかな?」という気になってくれた方もおられるのではないでしょうか?


もし映画版が好きならばぜひ原作も読むことをお勧めします。映画では原作の前半をメインに物語が作られていましたが、原作には後半がありますので映画の続編を読むような気分で楽しむことができると思います。


むしろ後半のほうがこの物語のメインともいえるのですが、映画を作るときには「主役のマーニーが後半出なくなるのはつらい」という理由で前半に比重が置かれたようです。


以前にも書きましたが、思い出のマーニーの原作は、岩波、角川、新潮の3社から出ています。


まずは岩波版です。宮崎駿鈴木敏夫米林宏昌が読んだのはこの岩波版でした。児童文学らしい平易な日本語で翻訳されている印象を受けますので、小学生以下の子供が読むのであればこれをお勧めします。逆に大人が読むにはすこし辛いかもしれません。

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)

思い出のマーニー〈上〉 (岩波少年文庫)


次に角川版。私が購入したのはこれです。これは現代口語風な翻訳がされているので、中学生以上の大人が読みやすいのはこれだと思います。私はこれを強くおススメします。


最後に新潮版。岩波版や角川版と比較すると硬い日本語が多いのが特徴です。私の家の近所の本屋では角川版よりも売れているように思われます。

思い出のマーニー (新潮文庫)

思い出のマーニー (新潮文庫)


それぞれ冒頭部分をWEBで試し読みできるので、好きな翻訳の本を購入するのが良いでしょう。

岩波版
http://www.iwanami.co.jp/.PDFS/02/3/0259730.pdf

角川版
http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=321405000137

新潮版
http://www.shinchosha.co.jp/book/218551/


以下、私が購入した角川版をベースとして、読書感想文を書いてみたいと思います!

第1章 アンナ

 小説ではアンナが湿地に向かう列車に乗るところから物語がスタートします。アンナの養母であるミセス・プレストン(頼子)はアンナに愛情が伝わるように別れのキスをするのですが、アンナはそんな気づかいが逆に"2人の間に垣根ができてしまう"行為だと受け取ってしまう子のようです。

 どうやらアンナは不自然なことが嫌いなようですね。アンナは本当はミセス・プレストンに「自然に」さよならが言いたかったのですが、キスのせいでそれができなくなってしまい、その失望を「ふつうの顔」をすることで隠そうとします。

 原作のミセス・プレストンは映画版よりも心配性のようでクドクドとアンナに話しかけるのですが、列車が発車しはじめるとドンドン早口になっていき、最後には走りだして「悲しそうな、すがりつく顔」になります。彼女が本当にアンナのことを愛していることが見て取れますね。

 すると、そんなミセス・プレストンの表情を先ほどのキスとは異なる"自然な素顔"だと受け取ったのでしょうか?アンナの心からは"垣根"が消え、先ほどまで閉ざしていた心を開いて窓から身を乗り出しながら「おばさん行ってきます!」と言うのでした。

 ところで、この「ふつうの顔」とはどういう表情なのでしょう?アンナの本心を隠すための仮面の顔のようなのですが、ミセス・プレストンには「無表情」に見えるようです。この後のシーンで喘息の診療に来てくれたブラウン先生の前でもアンナは「ふつうの顔」をするのですが、ブラウン先生の目には「むずかしい顔」と映っています。他にはこの後のシーンでアンナが周りの乗客から「物静かなおちびさん」だと思われないように「眉間にきゅっとしわを寄せた怖い顔」をするのですが、これも本人は「ふつうの顔」だと思っているようです。

 「無表情」「むずかしい顔」「眉間にきゅっとしわを寄せた怖い顔」・・・どうも「ふつうの顔」とは、何か決まった1つの顔を指すのではなく、その場に最も相応しいとアンナが考える表情なのでしょうか?

 第1章では他に、アンナが「なにも考えない」「やろうとすらしない」子であることが語られます。学校では仲良しの友達がおらず、他人から遊びに誘われることも無いようです。そしてどうやらその原因は、アンナが自分は魔法の輪の外にいると思い込んでいることが原因のようです。

 そしてミセス・プレストンはペグ夫妻(大岩夫妻)にアンナを預けたいとの手紙を出しOKの返事を受け取ります。その返事の中でアンナのことが「もの静かなおちびさん」と書かれていたのですが、それを見たアンナは不機嫌になります。ミセス・プレストンはそんなアンナを見て「わたし何か気にさわるようなことを言ったかしら」と気に病むのですが、ペグ婦人がアンナをそのように書いてきたということは、たぶんミセス・プレストンがアンナをそういうふうに紹介したのが原因ですよね。きっとアンナはペグ婦人に対してではなく、そのようにアンナを紹介したであろうミセス・プレストンに腹を立てたのでしょうね。

 アンナを乗せた列車は「ふつうの顔」をしたアンナを乗せて、湿地のあるノーフォークへと向かうのでした。

第2章 ペグさん夫妻

 ノーフォークに着いたアンナをペグ婦人がバスで迎えに来ていました。バスの中でアンナは小さな女の子の隣になることを恐れるのですが、アンナは自分よりも年齢が低い子と話すのが苦手なようです。この後マーニーとの別れを迎えると、アンナは小さな女の子ととても仲良くなるのですが、それもアンナの成長の一つのようです。
 
 バスに乗っていると海が見えてきます。しかしバスの乗客は誰も海には見向きもしません。アンナはそれを不思議に思い、その理由を「慣れっこになっているから」だと思うのでした。ここは少し印象的なシーンですね。たとえ素晴らしいものであっても身近にありすぎると気にかけなくなることが良くあります。「青い鳥」の物語も、結局青い鳥は自分の家の鳥かごにいましたしが、この海の話は何かそういった暗示なのでしょうか?
 
 ペグ夫妻の家に着くアンナ。部屋の壁に「よきものをつかめ」とかかれた刺繍の額縁が掛かっているのを見て、自分を「よい」子だと思っていないアンナは不愉快になります。以前このブログにも書きましたが、これはどうやら新約聖書の言葉のようです。この言葉はこの後も物語に何回か登場する印象的な言葉なのですが、もしかするとこれ以外にもキリスト教関係の台詞やエピソードが原作の中にあるのかもしれませんね。もし気付いた方がいたら教えて下さい。

 でも、それ以外は部屋が気に入った様子。映画では「よその家のにおいがする」と言い捨てましたが、原作では逆に「ふんわりあたたかくて、甘くて、どこか懐かしいにおい」と感じます。

 アンナはペグ夫妻と養母のミセス・プレストンについて会話をしミセス・プレストンを「本当の母親以上」だと話します。そしてそう話しながら、列車に追いつこうと走るミセス・プレストンの姿を思い出し、少し目頭を熱くするのでした。

 映画の冒頭では杏奈は頼子のことを「メエメェうるさいヤギみたい」と独白しているのですが、原作のアンナは心の中でミセス・プレストンを愛していることが見て取れます。ミセス・プレストンへの手紙にも「何トンもの愛をこめて」と書くアンナ。しかし一方でアンナの心ではミセス・プレストンへの小さなわだかまりが育ちつつあり、自分が本当にミセス・プレストンを愛しつづけられるのかどうか不安にもなるのでした。


つづく


*1:アクセス数はかなり少ないです^^;