思い出のマーニー 感想と考察 3 (映画の時系列と原作の構成)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
原作小説を買った私。その足で喫茶店に入り、その日の内に全部読んでしまいました。
感想。
うーむ・・・面白い。
面白いですぞおおおおおお!!!
さきほど映画のマーニーをドラゴンボールで例えると「栽培マン」くらいと例えましたが、原作は「べジータ」くらいの面白さです!
原作は映画よりもずっと面白い、それが最初の印象でした。
おおまかな内容は映画も原作も同じです。
マーニーと出会う
↓
「許して!」「許す!」
↓
マーニーは祖母だった!!
しかし、映画版ではマーニーとの別れが物語の最後近くだったのに比べて、原作では半分くらいです。そう、原作では別れの後が長いんです!
物語の構成をもう少し詳しく書くと、映画版では以下の時系列だと思われます。
劇中でスクリーンに映る杏奈の養育費に関する役所から届いた手紙が、平成23年に発行された書類で、平成24年度に杏奈が中学校に入学してからの補助金に関するものだったようなので、恐らく物語は2012年(平成24年)の夏だと思われます。
2012/7/1〜25のいつか *1
写生中発作2012/8/4 (1日目)
大岩家に到着。夕方 湿地屋敷を発見。
満潮で帰れなくなるが十一のボートに乗せてもらう。2012/8/5 (2日目)
自治会のゴミ拾い。
十一のボートに乗せてもらう。2012/8/6 (3日目)
信子の家に行って七夕に信子と一緒に行く約束をする。この日信子は塾。
湿地で絵を描く久子を見かける。2012/8/7 (4日目)*2
七夕で信子に「太っちょブタ」と発言。
マーニーに出会う。2012/8/8 (5日目)
マーニーと入り江の奥へ行き3つの質問をする。
そのままパーティーへ参加。
夜、郵便局脇で眠っているところを住民により発見される。2012/8/9 (6日目)
湿地屋敷へ行くが無人。昼寝後にマーニーを忘れていたので、もう一度湿地屋敷へ。2012/8/15 (12日目)*3
彩香との出会い。日記の存在を知る。2012/8/16 (13日目)
霧の中でマーニーに会う。キノコ狩りなど。
そのままサイロへ。
夜、サイロの近くで発見される。
熱にうなされながら、マーニーとの別れの夢を見る。2012/8/17~19のいつか
彩香が見舞いに来る。
マーニーの過去を知る。2012/8/19
佐々木頼子、釧路に来る。
マーニーが祖母だと知る。2012/8/20 (17日目)*4
帰宅
この彩香というキャラクター。映画では兄との二人兄妹でしたが、原作では5人兄妹の次女になっています。
この5人兄妹のリンジー家とアンナとのふれあいが、原作版マーニーの後半なのです。
原作の話の構成は以下の通りです。
【原作の構成】
アンナ湿地にくる
↓
アンナ、リンジー家の人々を見かける
↓
アンナ、サンドラと喧嘩(太ったブタ!)
↓
アンナとマーニーの初めての出会い
↓
アンナとマーニーの二度目の出会い
↓
アンナとマーニーの三度目の出会いとパーティー
↓
アンナとマーニーの四度目の出会い
↓
アンナとマーニーの五度目の出会い
↓
アンナとマーニーの六度目の出会いとキノコ狩り
↓
アンナとマーニー、ほとんど毎日一緒にすごす
↓
風車小屋
↓
「許して!」「許す!」
↓
アンナとリンジー家の出会い
↓
アンナ、日記の存在を知る
↓
マーニーは祖母だった!
↓
帰宅
ちなみに、原作ではアンナが湿地に来てからマーニーと別れるまでの間は、どうやら5週間のようです。*5
小さな違いとして、映画でマーニーが恐れる場所は「サイロ」でしたが、原作では「風車小屋」です。たぶん、北海道にはサイロのほうがポピュラーなんでしょうね。
あとは、アンナとマーニーの交流が、小説の方が回数も多く頻繁です。
そしてもっと大きな違いとしては、映画版では日記の存在をマーニーとの交流の途中で知るのに対して、原作ではマーニーと別れた後に日記を知ることになります。
そしてリンジー家との交流。
アンナとリンジー家との交流は、全体の1/3程度、約300ページ中の100ページ程度あります。
マーニーとの出会いと別れ → 「先生と僕」
リンジー家との交流 → 「先生と遺書」
といった印象を受けました。
原作では「別れてからが本番」なのです。
帰宅するまでがマーニーです。
それ以外は映画も原作も、大体一緒です。
思い出のマーニー 感想と考察 2 (原作小説を買いました)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
早速本屋さんに足を運んだ私。話題の新作映画ですし、どうせ原作小説は平積みになっているでしょう!
お?やはりありました!案の定、分かりやすく店頭に平積みされています!・・・あれ?2種類あるぞ!
その時本屋さんに置いてあったのは、角川文庫版と新潮文庫版でした。後から知ったのですが、どうやら岩波版もあるようです。
ふむ、よろしい。では読み比べて気に入った方を買って帰りましょう!
まずは角川文庫版の1ページ目。
ミセス・プレストンはいつもの心配そうな顔で、アンナの帽子をまっすぐに直した。
「いい子でいるのよ。楽しんできてね。それから、ええと・・・とにかく日焼けして、元気に、笑顔で帰っていらっしゃい」片手でアンナを抱き寄せると、別れのキスをした。アンナがあたたかさと安心と愛情を感じられるように、という気持ちをこめて。
でも、アンナはミセス・プレストンのそんな気づかいを感じとって、やめてくれないかな、と思った。気づかいなんかされると、ふたりのあいだに垣根ができて、自然なさよならが言えなくなる。ほかの子たちが楽々しているように、ごくあたりまえに抱き合ったり、キスしたりしながらお別れできたら、ミセス・プレストンはすごく喜ぶだろうに。かわりにアンナは、スーツケースをぶらさげたまま列車の乗り口の前にぎこちなく突っ立って、こう願っていた。わたし、「ふつうの顔」をしているといいけど・・・どうか早く列車が出ますように。
ミセス・プレストンは、アンナの「ふつうの顔」-ミセス・プレストンに言わせると「表情の無い顔」-を見てため息をつき、もっとこまごまとしたことに気持ちを向けた。
ミセス・プレストンとは、どうやら原作でのアンナの義母(佐々木頼子)のようです。なるほど、原作では湿地へ出発する所から始まるんですね。
義母の愛情あふれる別れのキスに戸惑うアンナ。その気持ちを隠すために「ふつうの顔」をしようとするけれど、義母にはそれが「無表情」に見えてしまう。
アンナはとても不器用そうな女の子ですね。なんだか、とても良い感じの書き出しです。これは期待できそうです!
次に新潮文庫。
プレストン夫人は今日も心配そうな顔で、アンナの帽子をまっすぐに直した。「いい子でいるのよ。楽しく過ごしてね―それからね―そう、素敵に日焼けして、朗らかな顔で帰ってくるのよ」夫人は片手をアンナの背中にまわして、さよならのキスをした―アンナに、自分は優しく大事にされていて、何の心配もいらないんだ、と思ってもらおうとして。
でも、アンナには、夫人のそういう意図がはっきり感じ取れて、そんな必要はないのに、と思ってしまうのだった。それでかえって2人の間に垣根ができてしまい、ごく自然にさよならを言うことができなくなってしまう。それさえなければ、他の子供たちが気楽にやるように、こちらから無意識に抱きついてキスをするのに。それこそはプレストン夫人が心から望んでいることだっただろう。でも仕方がない。アンナは、客車の乗降口に、身を固くして立っているしかなかった。片手にカバンを持って、どうか自分がつまらなさそうな顔をしていますように、早く列車が動き出しますように、と願いながら。
プレストン夫人はアンナの"つまらなさそうな"顔を見て― 夫人自身はその顔を"無愛想な顔"と思っていたのだけど―ついため息を漏らしてから、もっと現実的な事柄に注意を向けた。
ふむふむ。同じ原作なのですから、当然同じ内容です。でも・・・あれ?一つの違いに目が留まりました。
角川版では、アンナは「ふつうの顔」をしようとしているのに対し、新潮版では「つまらなさそうな顔」と訳されているのです。
果たして、アンナは「ふつうの顔」をしようとしているのか「つまらなそうな顔」をしようとしているのか!?
私は直感的に前者であろうと思い「ふつうの顔」つまり角川版を選択しました。
ふつうの顔をつくろうとするアンナ。けれど上手にはできずに、他人からは「無表情」だと思われてしまう。・・・なんだか少し切ない気分にさせられます。
これが「つまらなそうな顔」をしようとして、それが「無愛想な顔」に見えるとなると
・・・なんだか意味がちょっと分かりません。「つまらなそうな顔」は「無愛想な顔」と似たような意味ではないでしょうか?
客観的に見ると、アンナの顔は無愛想、つまり「つまらなそうな顔」をしています。だから新潮版は気をきかせて「つまらなそうな顔」と訳したのでしょう。
意味としてはあっていそうです。
でも、アンナがつくりたかったのは「ふつうの顔」・・・上手にはできないけれど。
私はそう思いました。*1
ちなみに、各出版社のマーニーをここで立ち読みすることができます
角川版
http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=321405000137
本を買うならば、気に入った翻訳のマーニーを買うのが良いでしょう。
*1:この箇所は原文では'hoping she looked ordinary'と書かれています
思い出のマーニー 感想と考察 1 (映画を見ました)
※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※
ジブリの新作アニメ映画「思い出のマーニー」もうご覧になったでしょうか?
私は大変感動しました!そして私の中でマーニーはナウシカ、ラピュタ、トトロなどをブッチギリで抜かして、ジブリのお気に入り映画NO1になりました!
わかりやすくドラゴンボールで例えるなら、ナウシカが指をクイッとするだけで町を吹き飛ばすナッパだったなら、マーニーは「私の戦闘力は53万です」と言うフリーザ様!!
え?褒めすぎだって?
正直そこまで面白くはなかった?
ふーむ、確かにYahooの映画感想(Yahoo! JAPAN)を読むと賛否両論あるようです。
実はかく言う私も、マーニーを最初映画館で見たときは「面白かったけれど、ちょっと微妙」というのが正直な感想でした。
マーニーは登場直後から、いかにも「普通の人間ではない」雰囲気を醸し出しています。
無人の館に突然あらわれた少女。その姿は夢で見たのとまるで同じ。でも昼間の館は何故か無人で、夜になるとマーニーは現れます。
マーニーと会うときは回りに霧が立ち込めたり、おどろおどろしい音が流れたり、ついには空中に足を踏み出したり!
マーニー、明らかに生きた人間では無いですね。じゃあマーニーは一体何者なのか?
私は最初、子供時代の主人公アンナが持っている金髪の人形がマーニーに似ているなあと思いました。
人形が孤独なアンナを慰めるために化けて出ているのではあるまいか?そして人形がアンナを取り殺してしまわないようにアンナとの別れを選択するという話ではあるまいか?
それが私の想像でした。
しかし湿地屋敷の中でマーニーの日記が発見されるシーンで、私の想像がどうやら間違いであると気づきました。マーニーは実在の人物のようです。しかしどうやら過去の人物。
はたして、マーニーの正体はっ!?
やがて物語りはクライマックスを向かえ、CMでも登場していたあの和解シーン。
アンナ「どうして私を置いていってしまったの!?どうして私を裏切ったの!?」
マーニー「アンナお願い!許してくれるって言って!」
アンナ「もちろんよ!許してあげる!!」
うーむ。サイロにおいていかれたのはショックだったのかもしれないけれど、でも映画のクライマックスに持ってくるほどの大した話なのかなぁ?と思う私。
それにしても、アンナはついさっきまで激おこプンプン丸だったのに、1分もしないうちに許しちゃってますね。
まぁ、かわいいから良しとしましょう。
そして映画の最後でマーニーはアンナの祖母だったことが分かります。
少しビックリ。ああ、そうだったんだ!マーニーはおばあちゃんだったんだ!そういえば劇中にアンナの目が青くて綺麗だというセリフがありましたねぇ。
劇中でアンナは早死にした母親と祖母を憎んでいました。なるほど、孫を不憫に思った祖母の霊が、アンナを慰めるために化けて出たんだ!
そして「私を許して!」「許してあげる!」のシーンは、祖母が早死にしたことを暗に謝罪しているんだ!そのように感じました。
ふむふむ。感動的ですね。
面白かった。映画館に足を運んだ甲斐がありました!100点満点で60点くらいあげちゃいます!わかりやすくドラゴンボールで例えるならば栽培マンくらいの面白さです!
しかし、一方で心に引っかかるものを感じました。
本当にそういう話なの?
そして私は原作小説に手を出したのです。
小学校の算数教育における掛け算順序問題
小学生の算数教育において、掛け算の順序が論争になっているということを最近知りました。どのような論争かというと
ウサギには耳が2つあります。ウサギが3羽いるときに、耳はぜんぶでいくつになるでしょうか?
という問題に対して
2 x 3 = 6 ←この答えに○をつけ
3 x 2 = 6 ←この答えには×をつける
このような教育方針が是か非か?という論争です。
もちろん数学的には 2 x 3 = 3 x 2 が成り立つので両方とも正解なのですが、日本の小学校の算数ではあえて 3 x 2 を不正解扱いにする教師が存在するということが問題になっています。
不思議ですよね?私は最初この指導方法の目的がわかりませんでした。
なぜこのような教育が行われているのでしょうか?
順序が重要?
教科書では小学生に掛け算を教える場合に以下のように教えます。
1つぶんの数 × いくつ分 = ぜんぶの数
つまり例に出した問題だと
1つぶんの数 = ウサギ1羽につき耳は2つ
いくつ分 = ウサギ3羽分
であるため
1つぶんの数(耳2つ) × いくつ分(3羽分) = 2 x 3
という順番の数式こそがこの教育方針に合致する「正しい順番の数式」と言うことになります。
逆に 3 x 2 では
いくつ分(3羽分) x 1つぶんの数(耳2つ) = 3 x 2
となってしまい、教師の教え方と逆の計算順序になってしまいます。ゆえに、掛け算の順序は固定されるべきだという価値観においては、3 x 2という解答は教師が教えたことを正しく理解していない誤った解答ということになります。
教育上の方便
もちろんこの指導方法は、なんの理由もなく行われているわけではありません。では、なぜ教師は固定の順番で計算した掛け算のみが正しいという指導方法を必要とするのでしょうか?
そこには「重要なのは数学の真理ではなく、教育上有効であるか否かである」という意見があるようです。つまり掛け算の順序を生徒に強要することが、実は掛け算を小学生に教える指導方法としては有効であり効果的であるという主張です。
もし本当に有効であるならば、私はこの意見には一考する価値があると思います。仮に一時的に生徒に嘘をつくことになったとしても、結果として算数の学習効果を高められるのであれば、方便としてそのような教育方針を採用するのは価値があると言えるからです。
つまり、掛け算の順序を強要する教育方針が是か非か?という命題は、それが価値のある方便と言えるのか?という命題に置き換えることができそうです。続けてそれについて考えたいと思います。
問題文を数式に置き換える能力
小学生が算数の文章問題を解くには、与えられた問題の文面を正しく理解して数式に置き換える必要があります。つまり
ウサギが3羽います。ウサギの頭には耳が2つついていますが、このとき耳はぜんぶでいくつになるでしょうか?
という問題があった場合に、それを正しく解釈し
1つぶんの数(耳2つ) × いくつ分(3羽分) = 2 x 3
という数式に置き換える能力は重要です。しかし教科書の記述に反して 3 x 2 という順番で数字を掛け合わせたのでは、単に問題文に出てきた順番で数字を掛けあわせているだけであり、問題の文面を正しく数式に置き換えたとは言えない。従って不正解にするべきというのが順序固定派の考えのようです。
驚くには値しませんが、小学校のテストでは生徒をひっかけるために「1つぶん」に相当する数と「いくつぶん」に相当する数の文章の中で登場する順番を入れ替えた問題さえ出すそうです。
しかし、ちょっと待って下さい。そもそも
1つぶんの数 × いくつ分 = ぜんぶの数
と
いくつ分 × 1つぶんの数 = ぜんぶの数
はいずれも正しい式であり、前者を推奨して後者を禁止するのは順序固定派が勝手に作ったルールであるにすぎません。
2 x 3も3 x 2も同じだと気づいている生徒が、教科書に掲載されていない式に則って3 x 2 = 6としても文面を式に置き換えられなかったとは言えず、むしろ隠れた公式を見つけるほどの高度な能力を備えている優秀な生徒であるとも言えそうです。
ではなぜ固定派はそこまでして計算順序を固定したいのでしょうか?
順序固定派が抱いている危惧
その背景には、順序固定派が抱いている危惧があります。
たとえば、掛け算を覚える前の、足し算と引き算しかできない小学生に以下の問題を出したとします。
カメの足は4本です。カメが2匹いるとき、足はぜんぶでなん本でしょう?
掛け算を覚える前ですから、足し算を正しく理解している生徒ならば以下の数式を立てるはずです。
4 + 4 =8
しかし実際には、少なくない数の小学生が、4 + 2 = 6という誤った数式を立ててしまうそうです。
つまり彼らは問題文を正しく解釈して数式を立てているわけではなく、問題文に出てきた順番で数字を単に+記号でつないだだけなのです。
この小学生に掛け算を教えた場合、同じように問題文に登場する順番で数字を×記号でつなぎ 4 x 2 = 8 という数式を立てるかもしれません。掛け算の場合では、偶然にも結果としてこれは正解してしまいます。
しかし、次に教わるのは割り算です。割り算の場合には計算の順番は重要です。つまり
割られる数 ÷ 割る数
という計算順序を厳密に守る必要があります。しかしそれまで足し算や掛け算を「数字を文章に登場する順番で計算記号で連結すれば良い」と誤って理解していた生徒には正しい数式を立てることができません。
たとえば、先ほどの生徒が割り算で以下の問題に出会ったとします。
カメの足は4本です。カメの足が全部で8本あるときに、亀はぜんぶで何匹でしょう?
しかし今度も彼がこれまで行ってきたのと同じように問題文に登場した順番で数字を÷記号で連結してしまうと「4÷8」という式になってしまいます。このようにして実際に多くの生徒が割り算を教わる時期に算数の勉強を挫折してしまうようなのです。
そこで登場するのが最初の
1つぶんの数 × いくつ分 = ぜんぶの数
という数式です。
つまり、深い考えもないまま問題文に登場する数字を順番通りに×記号で連結させるのではなく、どの数字が1つぶんの数であり、どの数字がいくつぶんの数なのかを考えさせるというステップを間に挟み、それから数式を立てさせるのです。
最初のウサギの問題を足し算として考えた場合は
耳2つ + 耳2つ + 耳2つ = 2 x 3 = 耳6つ
という式になるはずです。つまり、ウサギの耳が「1つぶんの数」、何羽いるかが「いくつ分」ということになります。
一方で
ウサギ3匹 + ウサギ3匹 = 3 x 2 = 耳6つ
という式や
耳3つ + 耳3つ = 3 x 2 = 耳6つ
という式を考えるはずがありません(ここでトランプ配りはどうなんだ?と思う方もいるかと思いますが、その疑問に関しては後述します)
ゆえに、2 x 3 という数式を考えた生徒は正しく思考しているだろうと推察でき、逆に3 x 2という数式を考えた生徒は問題文に登場した数字を単純に×記号で連結しているだけかもしれないと推察することができるようになります。
この指導方法ならば、教師は「誤った数式」を立てた生徒が本当に掛け算を理解しているのかを見直すことができるようになり、もし正しく理解していなかった場合は再指導することができるようになるのです。
しかし、ちょっと待って下さい。
数式を立てる前に「1つぶんの数」と「いくつ分」を考えるステップをはさむ、という指導方法には共感できるかもしれませんが、何もそれは
1つぶんの数 × いくつ分 = ぜんぶの数
という式ではなく
いくつ分 × 1つぶんの数 = ぜんぶの数
という式であっても良いはずです。なぜなら掛け算では交換法則が成り立つので、○x□でも□x○でも同じ結果が得られるからです。
つまり
- 数式を立てる前に「1つぶんの数」と「いくつ分」を考えるステップをはさみたい
ということと
- 掛け算の順序を固定させたい
ということの間には、実は本質的な関連性は無いのです。
考えるステップを間に挟むことと計算順序を固定することは本来無関係であるはずなのに、なぜ計算順序を固定しなければならないのでしょうか?
混乱防止論
掛け算の計算順序を固定し、一つの計算順序のみを教科書に載せて逆の計算順序は教科書に載せない理由として、混乱防止論があります。
数学上では○x□=□x○という交換法則が成り立ちます。しかし教育の初期の段階でそれを教える必要は無く、頭の悪い生徒はむしろ混乱してしまう可能性があります。つまり交換法則を教えることはむしろ学習妨害であり避けなければならない、という論理です。
ここまでの整理
ここまでを整理すると以下のようになります。
- 問題文に登場する数字を単に×記号で連結するのではなく、正しく数式を立てられる能力を養いたい
- それには掛け算の式を立てる前に、何が「1つぶんの数」で何が「いくつ分」かを考えさせるステップを挟むのが良さそうだ
- 「1つぶんの数」x「いくつ分」を逆の順番で計算しても数式としては正しいが、それを教えると頭の悪い生徒は混乱してしまう
- したがって教育の初期の段階にあっては混乱を防止するために掛け算の計算順序は固定したほうが良さそうだ
- もし教科書で教えた順番とは別な順番で計算している生徒がいたならば、彼は論理的に正しく計算式を立てたわけではなく、問題文に登場した数字を単に×記号で連結しているだけかもしれない。つまりこの指導方法は、計算のイメージを立ててから立式するという算数の訓練になると同時に、掛け算を正しく理解していない生徒を教師が見つけやすくなるという意味においても効果が期待できそうだ
これがどうやら掛け算の順序を固定する理由の真相に近いように思われます。
しかし、ちょっと待って下さい。
順序を固定する必要性がある、という結論に至った理由はわかりますが、なぜ
「いくつ分」x「1つぶんの数」
ではなく
「1つぶんの数」x「いくつ分」
で固定する必要があったのでしょうか?
係数と変数
順序固定派の、他に注目すべき意見としては、係数と変数の関係を生徒に正しく理解させたいという主張があります。
変数とはその名のとおり変わる数、係数とは変数に掛かっている数のことです。
ウサギが3びきいます。ウサギには耳が2つあります。耳はぜんぶでいくつでしょうか?
と言う問題では
係数 = 耳は2つ
変数 = 3羽
という事になります。つまり
2 x 変数 = 耳の数の合計
という式の変数に代入する数字を変えてやりさえすれば、ウサギが7羽になっても19羽になっても正しい答えを求めることができます。
数学においては、係数は左、変数は右に書くことが一般的です。例えば"2a"という記述は数式に良く登場しますが"a2"という記述は特別な理由(その方が計算しやすい、など)が無い限りは登場しません。したがって、係数を左、変数を右とする指導は重要だという考え方です。
現実の生活でも、係数は左、変数は右という例は散見されます。例えば、スーパーのレシートには大抵
アイス(100円) x 10個 1000円
と書かれており
10個 x アイス(100円) 1000円
と書かれていることは稀です。
ただし英語や中国語の文化圏では言語的に変数が最初、係数が後という記述方法も一般的なようです。それに対する順序固定派の反論としては「自身の文化圏に馴染んだ教育方法が妥当」というものがあるようです。
順序を固定するべきか?
ここまで、順序固定派の主張を分析してきましたが、ここからは反対派の意見を分析したいと思います。
反対派の意見には、大きく以下のようなものがあるようです。
- 掛け算の交換法則に反する
- 1つぶんの数を決めつけるのはよくない
- 順序では文章題の意味を理解しているかを判別できない
- 多面的にものを見る力や論理的に考える力を育てることにマイナス
まず、最も多い反論が「掛け算の交換法則に反してしまう」という意見です。掛け算では○x□=□x○が成り立ち、これは数学の最も基本的な定理です。しかし、計算順序の固定を強要してしまうと数学の常識と矛盾する「迷信」を子供に教えてしまうことになるという指摘です。
2つ目に多い反論が「1つぶんの数を決め付けることはよくない」という意見です。例えば、最初のウサギの計算では以下のような式を紹介しました。
耳2つ + 耳2つ + 耳2つ = 1つぶんの数(耳2つ) x いくつ分(3匹分) = 2 x 3
ここでは「耳2つ」を1つ分の数としているのですが、以下のような考えもできるはずです。
ウサギ3匹に耳を1つずつ + ウサギ3匹に耳を1つずつ = 1つぶんの数(ウサギ3匹に耳を1つ) x いくつ分(耳2つ分) = 3 x 2
この考えでは「ウサギ3匹に耳を1つ」が1つ分の数として扱われています。これは「トランプ配り」と呼ばれる配布法で、ウサギの耳をまるでトランプのカードのように各ウサギに配布しているイメージになりますが、掛け算としてはこの考え方でも全く問題はありません。
他には「順序では文章題の意味を理解しているか判別できない」という意見があります。
これについてはこちらのURL(http://blogs.itmedia.co.jp/magic/2011/12/6886-2d5b.html)に、印象的なエピソードが書かれていたので引用して紹介します。
「じゃあ・・ウサギには2本の耳がある。ウサギは4羽いる。耳は全部で何本?」
「ずつ、が入ってないからどっちが先か分かんない。答えは8本だけど」
「じゃあ・・ウサギには2本ずつ耳がある、だったら?」
「それなら、2×4=8本」「ずつ」がある方を先に書く、と覚えている訳です。
ここで書かれている少女は「ずつ」の有無で「1つぶんの数」か否かを判断しており、「1つぶんの数」の正しい概念を理解しているわけではないことになります。
ここまでの感想
正直に言えば、私も多くの方と同様、一番最初にこの話を目にしたときは強い戸惑いを覚えました。その気持ちを率直に表現すると「これはカルト宗教的教育ではないか?」という印象を持ったほどです。
しかし、順序固定派が持つ問題意識をよくよく分析してみると、それは決してカルト宗教的な動機によるものではなく、彼らなりの危機意識を背景とした一つの教育法ではないかと思えてきました。
それに、掛け算の順序が自由であっても固定であっても、その指導方法の背後に「小学生に算数の力をつけさせてあげたい!」という教師の真摯な思いがあるのであれば、結局は同じゴールに辿り付くのではないか?そう思えたのです。
しかし、残念ながら現実はそう美しくは無いように思えます。
手段の目的化
ここで注目すべきなのは、順序固定派の中に、以下のような意見があることです。
授業や教科書では順序に注目して問題を解くように指導している。したがって、その方針に反した解答は問題の前提に反しており、不正解として良い。
つまり○x□でも□x○でも正しいというのは数学の定理ですが、社会ではたとえ自分が納得できないことであってもルールに従う必要があります。それにも関わらず教師が教えた順番を守らないというのはルールに反しているので不正解とすべきという意見です。
注目すべき点は、順序を固定するというのはあくまで教育の「方便」に過ぎなかったはずなのに、この意見ではいつの間にかその方便が守るべき「目的」にすり替わっていることです。
なぜこのような事態が発生してしまうのでしょうか?
大きな問題として、算数の教科書が順序固定で記述されており、現場教員向けのマニュアルにも特定の順序で表される式のみが正しいと書かれている場合があるため、その指導方針に盲目的に従う教師が発生していることがあります。
盲目的に従う教師は、教科書に適合しない答えを不正解とします。また、たとえこの指導方法に否定的な教師であっても、盲目的な教師が採点するテストで生徒が不正解になるのを避けるために、仕方がなくこの指導方法で掛け算を教えてしまいます。
その結果、教師自身に深い教育的考慮がなく、単にルール違反という理由で生徒に不正解を与えてしまい、その生徒は不正解の理由を理解していないままとなってしまう。そういうケースが発生してしまうようなのです。
問題文に登場する数字を単に計算記号で連結するのではなく、どのように計算すべきなのかを考えさせてから式を立てさせたい。その動機には私も異論がありません。
問題は生徒の自由な発想を単に阻害するかのような教育が行われていることです。
例えば、横浜市のサイト(http://cgi.city.yokohama.jp/shimin/kouchou/search/data/25003016.html)にこの問題に関連するQAが記載されていましたので、以下に引用します。
<投稿要旨>
子供が宿題でやっていた問題が変です。
5x2はどちらでしょう?正しい方に○をつけましょう。
1)花瓶が2つにそれぞれ花が5本ずつ
2)花瓶が5つにそれぞれ花が2本ずつ
これはどちらも○です。ですが、どちらかを選べとしているのです。
もうかれこれ40年50年も論争が続いているかけ算に順番があるのかという問題を、未だに誤った教え方で子供に植え込まないでください。<回答>
御指摘のとおり、計算の仕方及び答えは、5×2でも2×5でも10ですので、どちらでも構いません。
ただ、かけ算は、同じ大きさのものがいくつかあるとき、その全体の大きさを求める計算で、同じ数を何回も加えるたし算(累加)の簡潔な表現として用いられるものです。
御指摘の「花の本数」を求める問題をたし算の式に表すと、
1)花瓶が2つにそれぞれ花が5本ずつ 5+5
2)花瓶が5つにそれぞれ花が2本ずつ 2+2+2+2+2
となります。このたし算の式をかけ算の式に直すと、
1)5+5 = 5×2
2)2+2+2+2+2 = 2×5
となり、式が異なってきます。
小学校では、計算の答えを求めるだけでなく、式の意味を考えることも大切な学習内容となっています。教育委員会といたしましては、国が定めた学習指導要領に基づいて各学校が授業を行うよう指導しておりますので、御理解のほどお願いいたします。
横浜市は小学生に5x2は「花瓶が2つにそれぞれ花が5本ずつ」と考えなければならないことを強要しています。
私はここまでに順序固定派の意見をある程度擁護してきましたが、私が擁護するのは以下のような教育プロセスです。
「花瓶が2つにそれぞれ花が5本ずつ」
↓
何が「1つぶん」か、何が「いくつ分か」を考えよう
↓
「1つぶん」x「いくつ分」の式にしてみよう
つまり生徒が何が1つぶん、何がいくつぶんかを考えて、順序を固定した式を立てさせる。ここまでは多くの人も許容できるのではないでしょうか?
けれども、上の横浜市の教育方針はこれとは似て非なるものです。つまり式を正しくイメージすることを目的とするのではなく、「どのように発想すべきか」を強要することを目的としています。
5 + 5 を 5 x 2と表現することには、私も違和感は感じません。
しかし5 x 2を「花瓶が5つにそれぞれ花が2本ずつ」と発想しては「いけない理由」を、私は全く思いつきません。
ただの方便であったはずの掛け算の順序固定という教育手段がいつの間にか目的化してしまった一つの例だと言えるでしょう。
手段と目的の混同が招く問題
大工道具の「ノコギリ」は木を切ることが出来る道具です。
しかしノコギリで木を切ること自体は本来の「目的」ではありません。ノコギリを使う本当の目的は家を建てることであったり、椅子や机を作ることにあるはずです。つまりノコギリは家や椅子、机を作るための「手段」にすぎません。
もしノコギリよりも便利な道具があるのであればそちらを使っても良いし、レンガ造りの家を建てたいのであればそもそもノコギリを使う必要もないわけです。
しかし、本来「手段」に過ぎなかったノコギリなのに、ノコギリを使うこと自体を「目的」だと勘違いしてしまい、むやみやたらに木を切ってしまったら、せっかく出来かけていた家を崩してしまうことにもなりかねません。
私が違和感を感じるのは、この例え話の「ノコギリ」に過ぎなかった「掛け算の順番を固定する」という「教育手段」が、あたかも「掛け算の順番を固定することこそが目的である」と誤解されているように感じられるからです。
本来掛け算には守らねばならないような計算順序はなく、国によっては両方の順番を教える所もあれば、逆の順番で教えている国もあるようです。
日本が「1つ分の数 x いくつ分」で計算順序を固定しているのは「最初はとりあえず順序を固定したほうが掛け算の理解を促進できるであろう」という期待を伴った「手段」であるにすぎません。
しかし、掛け算で交換法則がなりたつのは、理解の早い子供であれば九九を学習している段階で理解することでもあります。
もし、そのように掛け算を正しく理解して使いこなしている生徒に対して「掛け算の順序を守りなさい」とばかりに「とりあえずそうしている」にすぎないルールを強要してしまっては、彼に無用な混乱を与えしまうことになるでしょう。
これは「せっかく建ち始めていた家を、ノコギリを使うために崩してしまう」ような愚かしい行為であると言えるのではないでしょうか?
「テクニック」を教える指導
「手段」と「目的」を混同してしまった結果、誤った「目的」を達成するための「テクニック」が小学生に指導されているようです。
例えば、上の記事で「ずつ」の言葉の有無で、数式の先頭に書く数字を決めている女の子を紹介しました。
「じゃあ・・ウサギには2本の耳がある。ウサギは4羽いる。耳は全部で何本?」
「ずつ、が入ってないからどっちが先か分かんない。答えは8本だけど」
実は、小学校では以下のような指導が行われているようです。
「ずつ」がつく数を先に書きなさい
上記の女の子は、この指導にしたがって問題文のなかから「ずつ」という言葉を捜し、見つからなかったので「わからない」と答えたわけです。
似たような指導で、「ずつ」を「答えと同じ単位」に置き換えて指導する場合もあります。例えばウサギの耳を求める式ならば、答えは「何本」という表現になるため、「本」を先とします。
2本 x 4羽 = 8本
もし逆に、4羽 x 2本という数式を立てたのであれば、答えの単位ではない「羽」を先に書いたので×ということになります。
これらはいずれも教師が期待する「1つぶんの数」を数式の先頭に書かせるためのテクニックとして広く流布されている方法です。
このような指導が行われるようになった元々の背景には以下のような経緯があったと思われます
- 問題文に登場する数字を機械的に×記号で連結するのではなく、頭でイメージさせてから式を立てさせたい。だから「ひとつ分の数」を先に書くという指導方法を採用した。
- しかし何が「ひとつ分の数」であるのかが分からない生徒がいる
- だから「ずつ」や「答えにはどのような単位がつくのか」を考えてみるように生徒に指導するのが良さそうだ
しかし、教師から「式を頭でイメージさせたい」という当初の理念が失われてしまい、それが「教科書と同じ順番の数式を立てさせたい」という誤った目的に摩り替わってしまった結果
問題文の中から「ずつ」や「答えの単位」を探し、それを数式の先頭に書くように指導する
という、当初の理念とは似て非なる「テストで◯をもらうためのテクニックを教える指導」が生まれてしまったように思えます。
そして形骸化された「"ずつ"を探す」というテクニックだけが生徒に伝わり、生徒は深い考えもないまま機械的に問題文の中から「ずつ」という言葉を探すようになってしまっている。そして、どうしてそうしなければならないかも理解していない・・・というのが現在の教育現場の現実なのではないでしょうか。
算数嫌いを招くのでは?
私が最も危惧するのは、この教育方法が生徒の算数嫌いを招くのではないか?ということです。
上の花瓶の例では、5 x 2を「花瓶が5つにそれぞれ花が2本ずつ」と考えても、何も問題が無い。にもかかわらず、テストで生徒は不正解をもらうことになります。
生徒「先生、5 x 2を「花瓶が5つにそれぞれ花が2本ずつ」と考えたらどうしていけないんですか?」
教師「5 x 2は5 + 5でしょ。つまり花が5つ入った花瓶が2つあることになるよね?」
生徒「でも先生、5 x 2は2 x 5と同じです。それに5つの花瓶に1本ずつ花を刺すのを2回繰り返したら5 + 5ということになります」
教師「屁理屈言わずに、掛け算のルールを守りなさい!」
生徒「・・・わかりました。(算数は理不尽なルールが支配するつまらない教科であると理解しました)」
不正解を不正解とされても、子供は傷つきません。それは子供にも納得できることだからです。しかし、正解を不正解とされたらどうでしょうか?正しい答えを書いたはずなのに、不正解にされてしまう。理由もよくわからない。生徒は混乱し、理不尽に感じ、算数に対する興味を失わせてしまう結果になるでしょう。
これは無視されて良いほどのささやかなデメリットなのでしょうか?
私は教育者ではありませんが、教育の真の目的とは子供に勉強を教えることではなく、子供が勉強を好きになり、自ら進んで勉強を行えるように手助けをすることにあるのではないかと思います。
不用意に子供の学習意欲を削ぐような指導方法だけは、現に謹んで欲しいところです。
最後に
掛け算の順序固定化に関する議論の歴史は意外と古く、既に半世紀近く前から存在していたようです。
どのような結果を招いたことであれ、それが始まったそもそもの動機は善意であったはずです。掛け算の順序固定化も、発端は小学生の算数教育を考え抜いた教師の真摯な思いであったに違いありません。
この問題を調査したことにより、私は「掛け算の順番を固定する」という教育方法の背景には合理的な目的意識があり、この教育方法を正しく使いこなすことができれば、もしかすると算数の学習効果を高められる可能性は十分にあるのではないかと思うようになりました。
しかし、時が経過して当初の理念が失われ、形骸化した結果だけが一人歩きしてしまうことも良くあります。
残念ながら、掛け算の順序固定化も、そうしたケースの一つではないかと感じました。