多数決は民主主義か?
私が小学生くらいの頃、テレビでこんなドラマを見た記憶があります。
とある学校のクラスでは、男子と女子が対立する問題がしばしば起こるので、そのたびに多数決で解決を図ることになりました。
しかし、そのクラスには男子の方が多くいたので、どんな問題も男子の思い通りに決定されてしまいます。当然、女子には不満がたまりますが、男子は「多数決で決めたのだから民主主義だ」と主張するのです。
その後も男子は、女子を黙らせる便利な道具が手に入ったとばかりに、「民主主義だ!」を連呼しながら次々と自分たちに都合の良い決定を行い続けるのですが、女子の意見が聞き入れられることは一度もありません。そして最後に、一人の女の子が「多数決なんて暴力よ!」と泣きだして、ドラマは終わりです。
このドラマを見て、まだ子供だった自分は「そうはいっても、意見が割れることは多数決で決めるしかないんじゃないかなぁ」と思っていました。
でも、大人になった今では、何が問題だったのかがハッキリと分かります。
皆さんは、このクラスのどこに問題があったのか、分かりますか?
そうです、このクラスの多数決は民主主義だとは言えません。なぜなら意思決定のプロセスに「議論」が無いからです。
多数が支持しているというだけでは、正しい決定とはいえない
民主主義の本質は、多数決にはなく、議論にあります。たとえば一つ例を出しましょう。
10人で山道を歩いている時に、分かれ道に差し掛かったとします。左の道は景色が美しく、右の道は目的地まで早く着ける道です。
多数決を取ったら、10人中9人は「左の道へ進もう」と言いました。彼らは美しい景色が見たかったのです。でも残りの1人は「左の道には反対だ」と言います。
さあ、多数決を尊重して、左の道へ進むべきでしょうか?
「多数決で決めたのだから、それに従うべきだ」と考える人もいるかもしれません。
でも、ちょっと待って下さい! もしかすると、反対している1人は「左の道は危険だ!」と言うかもしれません。
「それでも多数決を尊重して、迷わず左へ進むべきだ」という人はいないと思います。どうして左の道が危険だと思うのか、彼の意見を聞くべきです。
たとえば、その人はこう主張するかもしれません。
左の道には、途中に古い吊り橋がある。長い間メンテナンスされた様子がなく、10人で渡れば落ちるかもしれない。
この話を聞いたことで、左の道に賛成していた9人の中の8人が「やっぱり右の道へ進もう」と意見を変えるかもしれません。では、新たに多数派となった右の道へ進むべきでしょうか?
いいえ、今度も1人が右の道に反対しており、まだ議論が尽くされたとは言えません。なぜ右の道に反対なのか彼の意見を聞くべきです。もしかすると彼はこう答えるかもしれません。
実は右の道にも、古い吊り橋がある。その橋もいつ落ちるか分からない。
すると、別な一人が声をあげます。
そういえば、今来た道を少し戻れば3つめの道があり、新しくて丈夫な橋がかかっている。少し遠回りになるが、安全なその道を行くのはどうだろうか?
この話を聞けば、今度は全員が3つめの道へ進むことに賛同するでしょう。もう多数決を取る必要もありません。
もし最初から多数決で道を決めていたら、この解決策にはたどりつけませんでした。それぞれが自分の意見を表明し、他人の意見を聞いたからこそ、彼らは最善の道を選ぶことができたのです。
このように、多くの人の意見を聞いて、議論を尽くし、より良い答えを見つけるのが民主主義です。
議論をすることなく、単に「多数が支持しているから」というだけの理由で決めてしまっては、誤った道を選択してしまうかもしれないのです。