思い出のマーニーをふりかえる6

アンナとマーニー


再び原作にもどります。


マーニーと友達になったアンナ。しかしいままで友達を持ったことがないアンナにはそれが信じられません。


角川版P84

ボートがきしんだ音を立ててそっと岸辺の砂の上に乗り上げると、アンナは飛び降りた。少しのあいださよならを言いたくない気持ちで、だまったまま、へさきをつかんでいた。(略)アンナは目をあげ、星がちらばる広大なそらをあおいだ。ああ、やっぱりこれはみんな夢だ・・・。


f:id:shinya1996:20150501205402p:plain


なんだか寂しげに星空を見上げている少女の姿が目に浮かびます。

なごりおしさに船のへさきをつかんでいるという表現も、アンナの心情がうまく表現されていますね。

凄く情緒的なシーンなので、この場面が映画に無いのは少し残念です。


それにしても

「自分に友達ができた!」 ==> 「じゃあこれは夢に違いない」


アンナどんだけ(笑)


しかしマーニーにほっぺにチューされた後、ようやくこれが現実だと納得したアンナ。


角川版P85

ということは、やっぱりあの子はほんとにいるんだ!アンナは喜びにふるえながら、家へ向かって走った。


この「喜びにふるえながら」というのが、なんか良いですね。アンナの喜びが目に浮かびます。


f:id:shinya1996:20150501224854p:plain
※画像はイメージです



さてさて。


物語の開始からアンナがマーニーと友達になるまでだいたい80ページくらいあります。
第一章からアンナの孤独感が描写され続けてきたので、アンナに友達ができたことに読者の感慨もひとしおです。


さて、改めて物語全体の構成を眺めて見ます。
f:id:shinya1996:20150501211814p:plain


こうしてながめると、マーニーとの交流はかなり短いですね。
はかない夢のような交流だったことがわかります。

マーニーの日記


マーニーの日記は、原作では第一次大戦(1914-18)のころに書かれたことが明らかになっています。では正確には何年なのでしょうか?

まずヒントとなりそうなのが6月5日の日記

角川版259ページ

ベルギーの子どもたちは、鉄砲や戦いの音で目をさます。

しかし調べてみるとベルギーは大戦を通じて最前線に位置していたらしく、ヒントにはなりませんでした。

次に目をつけたのが7月11日以降の日記です

7/11
 エドワードが来た。これから十日間ここにいる。(略)
木曜日
 浜辺へ行った。
金曜日
 ふたりで砂丘に小さな家をつくった。(略)
月曜日
 エドワードと馬で散歩。
木曜日
 きょう、エドワードは私に、Pのしつけをさせようとした(略)
日付なし
 エドワードはわたしを風車小屋へ連れて行きたがっている

つまり、7/11から21までのあいだに木曜日が2回含まれるようなカレンダーのある年がマーニーが日記を書いた年だとわかります。

f:id:shinya1996:20150501221304p:plain


となると、候補となるのは1916年と1917年です。

ですが1916年は木曜日がギリギリ最後に来ているので、恐らくは1917年ではないかと思います。「日付無し」の日記が金曜日だとすると、風車小屋にいったのはその翌日の土曜日です。


というわけで、ここにまた一つトリビアが生まれました。

f:id:shinya1996:20150501222537j:plain

原作でマーニーが風車小屋に行った日は1917年7月21日(土)です。


つづく

思い出のマーニーをふりかえる5

映画でのマーニーとの出会いの描写


もうすこし映画の話をつづけます。


原作のアンナはマーニーと出会ってもすぐには心を開きません。


それどころかアンナはマーニーに腹を立てたり背を向けたり早く帰ろうとしたりしています。


アンナが初めてマーニーに心を開くのは、マーニーと出会ってからようやく5ページ目くらいです。


原作ではかなり慎重に相手を見定めているアンナ。


まぁ「あなた○ジキ?」とか放送禁止用語を出して聞いちゃうマーニーも問題オオアリですが・・・。*1


ともかくアンナはマーニーが本当に自分と友達になりたがっていることを感じたとき、ようやく心を開いたのでした。


では映画ではどうだったでしょうか?ちょっと観察してみましょう。


f:id:shinya1996:20150425221710p:plain
この子人間?


f:id:shinya1996:20150425221605p:plain
なんなのこの子?


f:id:shinya1996:20150426223857p:plain
怪しい子だわ


f:id:shinya1996:20150425221610p:plain
ずいぶんべたべたするのね


f:id:shinya1996:20150425221631p:plain
変な子ねぇ


ずっと戸惑いの表情を見せていた杏奈が初めて笑顔を見せるのは帰る直前です。


f:id:shinya1996:20150425221634p:plain
「私も、もっと上手にこげると思ってた!」


角川版 P82

「ええ、もちろん。あなたのために、わざと置いておいたの。でも、まさかこげないとは思わなかったわ!」ふたりは暗がりでくすくす笑いあった。アンナは急に、このうえなく大きな幸せを感じた。


映画では、杏奈はマーニーに腹を立てたり背を向けたりはしていませんが、マーニーに心を開くタイミングは原作を踏襲しているようですね。

旅立ちのときの帽子


なんとなく気付きましたが、映画の杏奈が旅立つときの帽子は原作の挿絵と同じです。

f:id:shinya1996:20150426220032p:plainf:id:shinya1996:20150426220034p:plain




つづく

*1:半世紀前の小説なのでお許しを

思い出のマーニーをふりかえる4

映画の舞台


ヒマな思い出のマーニーが大好きな皆さんのために、映画の地図をちょっとまとめてみました。*1

f:id:shinya1996:20170522171518p:plain

水色の線:駅から大岩家までの経路
黄色い線:太っちょブタ事件での杏奈の逃走経路

  1. 「上の大きい道路ができてからは、すっかり人がこなくなっちゃったけど」
  2. 「あそこの陥没まだ直してなかったのか!」
  3. 灯台(この絵では雲でかくれてしまってますが)
  4. 神社
  5. 大岩家
  6. ちかみち
  7. 信子の家
  8. 神社入り口
  9. 郵便局兼商店
  10. 船つきば
  11. 久子がスケッチしている場所
  12. 杏奈がスケッチしている場所
  13. マーニーのボート(満潮時に発見)
  14. サイロ
  15. 漁師小屋
  16. 湿地屋敷


気付いたのですが、信子の出現場所がちょっと不思議です。


信子の家は神社の右手にあるのですが、塾から帰宅する信子が歩いていた方向は自宅とは別な方向のようです。自宅にもどるなら、彼女も友達と同じ方向に曲がらねばなりません。


また、信子が手紙を出すシーンや、物語の最後に杏奈が信子にお別れを言うシーンでは、信子親子はいったいどこに向っていたのでしょう?


もしかするとダイエットのために散歩しているのかもしれませんね。


あと、パーティーの後、郵便局で寝ている杏奈を発見した車は大岩家からの帰りだったのでしょう。車が来た方角には大岩家しかないからです。きっと杏奈のことも大岩家で聞いたばかりだったんですね。


それに映画の最後、自動車に乗った杏奈から湿地屋敷までの距離は、恐らく200m以上あります。湿地屋敷の窓で風にゆれるカーテンがマーニーに見えたのも無理はありません。


つづく


f:id:shinya1996:20150412140044p:plain

*1:私も相当ヒマですね

思い出のマーニーをふりかえる3

映画での魔法の輪


話がだいぶ原作に集中してしまったので、少し映画版の話もしたいと思います。


原作でのアンナは、本当は他人と仲良くなりたいのに、相手のほうがアンナに関心を持ってくれずに仲良くなれない女の子だと描写されていました。


その原因が分からないアンナは、自分が目に見えない「魔法の輪」の外にいると感じており、その失望を「ふつうの顔」をして隠そうとします。


では、映画での杏奈はどのように描写されていたのでしょうか?


他人を毛嫌いする極度に自閉的な女の子?


いいえ。


映画でも原作と同様に杏奈は「本当は他人と仲良くなりたい女の子」として描写されていたように思えます。


まず映画冒頭で、あの中二病全開キャッチーな台詞があります

この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。


そして、その直後に、教師と思われる男性が杏奈に絵を見せるように話しかけます。


最初は戸惑う杏奈。


f:id:shinya1996:20150411210432p:plain


しかし次に見せる表情は・・・


f:id:shinya1996:20150411210440p:plain


笑顔です。しかも少し頬を染めて胸をトキめかせています


ここでは他人と触れ合うことに戸惑いはあるものの、心の奥底ではそれを望んでいる杏奈の姿が描かれています。


本当は誰かに自分の絵を見てもらいたいのです。


しかし!


f:id:shinya1996:20150411210452p:plain


教師は子供の泣き声に気を取られて、杏奈の絵を見ずに離れて行ってしまいます。


彼は本心から杏奈の絵を見たかったわけではないのですね。


杏奈はこのショックが原因で喘息の発作を起こしてしまいます。


f:id:shinya1996:20150411210500p:plain


杏奈から人を遠ざける魔法の輪。


杏奈が相手と友達になりたくても、相手のほうがすぐに杏奈から興味を失ってしまう・・・。


まさに原作と同じ杏奈の姿が映画でも描かれています。


杏奈にはこうなることが最初から分かりきっていました。


だから、杏奈は人と触れ合うことを拒絶するのです。


角川版P13

ブラウン先生は歩きまわるのをやめ、アンナがベッドでのどをヒューヒュー言わせながら「ふつうの顔」をしているのを、なにやら考えながら見つめていた。


f:id:shinya1996:20150411212122p:plainf:id:shinya1996:20150411212125p:plain


杏奈は「ふつうの顔」をして自分の感情を隠すしかないのでした。


太っちょブタの信子


では、太っちょブタの信子に対しては、あなたはどのような印象を受けたでしょうか?


杏奈に優しく手を差し伸べる信子と、それを拒絶する杏奈?


いいえ。


ここでも杏奈は「本当は信子たちと仲良くなりたい」女の子として描かれていたように思えます。


最初、信子と七夕祭りに行かなければならなくなったことに気を重くする杏奈。


信子たちと歩いている姿も、沈んでいるように見えます。


f:id:shinya1996:20150411213312p:plain


結局自分は他人と仲良くなれるはずがない・・・。


杏奈にはそれがわかりきっているからです。


そんな杏奈に話しかける信子。

「杏奈ちゃんはどこから来たの?」
「札幌です」
「いいなぁ都会で!お買い物いっぱいできるのね!」


会話成立!


この直後に杏奈の表情に変化が現れます。


f:id:shinya1996:20150411213644p:plain


笑顔!


そう、信子の後姿を見ながら杏奈は笑顔を浮かべています。


「この人となら、友達になれるかもしれない・・・」


きっとそう思ったのです。


しかし!

信子「でもどうしてこんな田舎にきたの?」
杏奈「えーっと・・・」
女の子「なにこれ?信子ちょっと来てよ!」
信子「えっ?なになに!?」
杏奈「・・・」


信子は杏奈への質問など忘れて女の子の方に行ってしまいます。


信子は本心では杏奈にあまり関心がないのですね。


結局はうわべだけの優しさにすぎないのです。


期待を裏切られた杏奈。


彼女にはこうなることは最初から分かりきっていました。


杏奈はその失望を「ふつうの顔」をして隠すしかないのでした。


f:id:shinya1996:20150411214521p:plain


そして同じことがもう一度起こります。

信子「でも杏奈ちゃん。ふつうってなあに?」
杏奈「それは、つまり、えーっと・・・」
信子「あっ!杏奈ちゃんの眼の色!」
杏奈「・・・」


またしても、杏奈の答えから興味を失う信子。


ここにあるのは


杏奈と友達になろうとする信子とそれを拒絶する杏奈の姿ではありません。


このシーンで本当に描かれているのは


本心では信子と友達になりたかった杏奈と、実は杏奈に全く興味など無い信子の姿です。


自分に興味なんてないくせに、友達になりたがるフリだけして、自分の心を踏みにじり続ける信子・・・。


f:id:shinya1996:20151012103255p:plain

いいかげんほっといてよ。太っちょブタ!


杏奈にとって、信子は結局「魔法の輪の向こう側にいる女の子」だったのでした。


つづく

思い出のマーニーをふりかえる2

早いもので、もうマーニーのDVDレンタルが開始されましたね。


このブログを訪れる人も少し増えたようです。


DVDを借りてきて久々にマーニーを見たのですが、劇場では気付かなかった点など、新たな発見もありました。


前回からだいぶ日数があいてしまいましたが、続きを書いていきます!

心に住む夢の家族

「よきもの」なんてどこにもない---いちばん良くないのは私だ


みじめな気持ちが熱い涙になってアンナのほおを伝った時、アンナの心に浮かんできたのは湿地屋敷のパーティーでした。


心のなかで想像したダンスパーティーがあまりにも鮮明に感じられたので、アンナにはそれがまるで現実のように思えてきてしまいます。


ダンスパーティーを見ようと夜の湿地に走るアンナ。
しかし、そこにあったのは静寂と暗闇だけでした・・・。


このあたりの描写は、なんだかマッチ売りの少女を連想させます。

ひらいた窓の前にじっとひざまずいて、アンナは夢にどっぷりとひたり、まるで自分がそこにいるかのように感じていた。ただし中ではなく、外のあの歩道からのぞいている。玄関のわきの細い窓から、色鮮やかなドレスがいくつも目の前をいきかうのが見える。


ここで書かれている「玄関のわきの細い窓」とは、きっとこの窓だと思います。
f:id:shinya1996:20150217234805p:plain


この小説の重要な要素である湿地屋敷。アンナはこの屋敷の存在を知ってからというもの、ほとんど一日中湿地屋敷のことばかりを考えるようになっていました。


そして湿地屋敷に引っ越してくる家族があることを聞いてからというもの、その家族に思いをはせるようになります。


角川版 P50

でも、この家族はきっとちがう。だって、まずなによりあの屋敷で-「わたしの」屋敷で-暮らすんだもの。それだけでも特別なことだ。私の家族みたいのものだと言ってもいい。


アンナから人を遠ざけてしまう魔法の輪。


けれど、この夢の家族だけはきっとちがうにちがいない。


しかし、そう空想する一方で、本心でアンナは「そんな人たちが居るはずない」とも思っています。


あくまで「これは空想なんだ」と自覚した上での妄想なんですね。


角川版 P49

ほんとうにその人たちを知って、向こうもアンナのことを知ったら、そういうことがみんな台なしになってしまう。きっとその人たちも、ほかの人たちと同じく、うわべだけ愛想よくしてくれて終るだろう。


角川版 P50

アンナは空想の中で気の向くままにつばさを広げ、まだ見ぬその家族のことを、まるで自分の心に住む夢の家族のように思い始めた。本物の人たちのはずがない、と強く心に言い聞かせながら。


f:id:shinya1996:20150408194734p:plain


しかし、そんな妄想にどっぷりとひたっているアンナの前に、本物の屋敷の住人が現れました。

マーニー


にみた湿地屋敷の住人が突然アンナの前に現れました。


それがマーニーです。


しかし、あくまで


アンナと友達になりたがるようなそぶりを見せるマーニーに、アンナはを向けてしまいました。


角川版 P79

アンナは、ぷいっと背を向けて言った。「無理すること無いよ」


結局はこの子も、うわべだけ愛想良くしてくれるだけ。


たとえ湿地屋敷の住人であろうと、アンナと友達になりたがる人なんて現実にはいるはずが無いのです。


そんなことはアンナには分かりきっています。


だから、無理して友達になりたがるフリをする必要なんてない・・・。


しかし帰ろうとするアンナにマーニーは言いました。


角川版P79

だめよ、行かないで!なにをばかなこと言っているの。あたし、あなたことがすごく知りたいのに。


なんということでしょう!


誰からも愛されたことがないアンナに「あなたのことがすごく知りたい」と言ってくれる人が現れたのです!


f:id:shinya1996:20150408203437p:plain


心に住む夢の家族が、本当にいたのです。


つづく

思い出のマーニーをふりかえる

映画思い出のマーニーが公開されてから、はや半年が過ぎました。


最近ではこのブログを訪れる人もめっきりと減りましたが、今頃このブログを訪れてるあなたはきっと、よっぽどヒマな人マーニーが好きな人なんですね。


私が最後にマーニー関連の記事を更新したのは昨年の9月でしたが、私もヒマな人マーニーが好きなので、その後は英語の原書を読んだり日本語訳を何回か読み返したりしていました。


すると以前は間違って解釈していたことや改めて気が付いたことなどが結構出てきまして、そろそろ思い出のマーニーをもう一度総括してみようという気になりました。


最初は柄にも無く少し真面目な文章で書いてみたのですが、ぶっちゃけ自分で読み返してみても「堅苦しくて読む気になれない」と感じてしまったので、例によってゆる~い感じでつらつらと書いていきます。

原作「When Marnie Was There」


思い出のマーニーの原題は"When Marnie Was There"で、1967年にイギリスで出版されました。


f:id:shinya1996:20150211114654p:plain
こちらが原作者のJoan Gale Robinson(1910 – 1988)さんです。


f:id:shinya1996:20150426223900p:plain
ずいぶんと毛深い人のようですね。


ってアレ? すみません、うっかり間違えました。
f:id:shinya1996:20150211113719j:plain
こちらが原作者ですね。


当初、小説の題名はシンプルに「Marnie」にする予定だったそうです。


けれど、出版する数週間前になってヒッチコックの同名の映画が公開されてしまったので、あわてて"When Marnie Was There"に改名したというエピソードが原書のあとがきに書かれています。


あれ?でもwikiで調べてみるとヒッチコックの映画は1964年に公開されていますね。この小説が出版される3年前のようですがどういうことでしょう?あとがきは作者の死後、2002年になってから娘が書いたようですので、もしかすると何かの記憶違いがあるのかもしれません。それとも、イギリスでの公開は1967年だったのかな?


主人公アンナはイギリス人。ロンドンのエルムウッドテラス25番地に住んでいます。この住所を探してみましたが、どうやら架空の住所のようです。


小説ではアンナはロンドンのリバプールストリート駅から汽車に乗りました。

こちらが現在のリバプールストリート駅
f:id:shinya1996:20100521081006j:plain
f:id:shinya1996:20150211114905p:plain
f:id:shinya1996:20150208193752p:plain


途中キングス・リンで列車を乗り換えてヒーチャムに向います。


調べてみるとキングス・リンからヒーチャムまでは現在鉄道が無いようです。wikiによればヒーチャム駅は1969年5月5日で閉鎖されたとあります。アンナがヒーチャムに来たのは廃路の数年前だったんですね。


こちらがヒーチャム駅です。
f:id:shinya1996:20150211115659j:plain
http://www.wolfertonroyalstation.co.uk/alongtheline/Heacham/Heacham_02b.jpg


Abandoned Lines and Stations - eastanglianrailwayarchive


ヒーチャムにはペグのおばさんが迎えに来てくれていました。おばさんと一緒にバスに乗ったアンナ。二人でリトルオーバートンまで向います。このリトルオーバートンというのも架空の町で、バーナムオーバリー(Burnham Overy)という町がモデルになっているようです。乗用車で30分。バスだとだいたい1時間程度のようです。


f:id:shinya1996:20150208201635p:plain


作者はこのバーナムオーバリーが大好きで夏になるたびに家族で来ていたようです。このバーナムオーバリーに、マーニーが住む湿地屋敷のモデルがあります。

f:id:shinya1996:20150208202456p:plain
f:id:shinya1996:20040915114207j:plain
f:id:shinya1996:20150208202757j:plain


青い窓枠が印象的な建物ですね。この建物は今は穀物倉庫だそうです。作者がこの倉庫の前を通ったときに窓の中に金髪の少女が髪を梳かしてもらうのを見かけ、それをヒントとしてこの小説を書き始めたといいます。f:id:shinya1996:20150211120540p:plain


あとがきによると屋敷の周りには当時木々が生えていたようですが、今は切り倒されて家がたくさん建っているようですね。


ちなみに、作者の墓もこのバーナムオーバリーにあります。


f:id:shinya1996:20150208232221p:plain


左の中央にある「The Tower Windmill」と書かれているのが風車小屋です。
f:id:shinya1996:20150211121258p:plain


当初は小麦粉をひいていたそうですが、現在はコテージとして使用されています。
f:id:shinya1996:20150208204441p:plain



もちろん小説は作り物なのですが、これらの風景から思い出のマーニーは生まれました。
f:id:shinya1996:20151010112318p:plain

原作のアンナ


原作を読んで最も印象深く感じるのは「アンナの性格が映画とはちょっと違う」ということです。


f:id:shinya1996:20150206212815p:plainf:id:shinya1996:20150206212827p:plain


以前にこんな表をブログに載せました。
f:id:shinya1996:20140806131620p:plain


これを見れば分かるとおり映画版の杏奈はまるで生理的に他人を毛嫌いしているかのように表現されているのですが原作のアンナは決してそうではありません。


むしろ愛情豊かで、心の奥底では他人と仲良くなりたいと思っているようにさえ見えます。


彼女の心理が垣間見える記述が、第五章に書かれています。


角川版P49-50

ほんとうにその人たちを知って、向こうもアンナのことを知ったら、そういうことがみんな台なしになってしまう。きっとその人たちも、ほかの人たちと同じく、うわべだけ愛想よくしてくれて終るだろう。「外」にいるアンナのことを「中」からおもしろそうにながめ、自分たちと同じものが好きで、同じものを持っていて、同じことをするものだと決めてかかる。そして、アンナが同じものが好きではなくて、同じものを持っていなくて、同じことができないと気がつくと---または、いつもアンナをほかの人たちから遠ざけるなにかに気がつくと---すぐに興味をなくしてしまう。いっそ、きらいになってくれればいいのに。
けれど、そんな人はだれもいない。みんな、礼儀正しく興味を失うだけだ。そうなると、アンナのほうからその人たちをきらうしかなくなる。腹立ちまぎれにではなく、冷ややかに。ずっと「ふつうの顔」をしたまま。


原作のアンナは決して人嫌いなわけではないようです。それにも関わらず、アンナと知り合う人は皆、相手のほうからアンナへの興味を失ってしまいます。


それがなぜなのか、アンナには原因が分かりません。嫌われるならまだしも、まるでドラえもん石ころ帽子を被っているかのように、単に誰からも感心を持ってもらえないのです。


アンナはそれを自分が目に見えない魔法の輪の外にいるからだと解釈するようになり、他人と仲良くなれない失望を「ふつうの顔」をすることにより隠すようになりました。


怒り出すのではなく、冷ややかに。まるで最初から自分も相手に興味がなかったかのように。


原作でアンナが自分の感情を隠す時に使うこのふつうの顔ですが、このように描写されています。

Immediately Anna drew herself up stiffly and put on her 'ordinary' face


直訳すると「彼女の"ふつうの顔"を身に付けた」という感じでしょうか。


表情というよりも、まるで素顔を隠す仮面のように、アンナはふつうの顔装着するのでした。


f:id:shinya1996:20150211124516p:plain


ミセスプレストン


誰からも愛されない少女アンナ。


しかしそんなアンナにも、たった一人の例外がいました。彼女の育ての親であるミセス・プレストンです。


アンナはミセスプレストンを「私を自分の子供のように思ってくれている」と感じ、愛しています。


しかし、養育費の存在を知ったことにより、アンナの心に小さな棘が刺さってしまいました。


もしかすると、ミセスプレストンの愛情は、自分が思っていたほどには純粋なものではないのかもしれない。


そう思えてきたのです。


養育費の存在を知ったせいか、アンナは物語が始まる半年前からは何ごとも「やってみもしない」といわれるまでに無気力になり、最近では「一日のほとんどを何も考えずに過ごすようになってしまいました。


原作では、このミセスプレストンへの疑いが交互にアンナの心に現れてアンナを苦しめる描写がされています。


まずは原作の冒頭です。

 ミセス・プレストンはいつもの心配そうな顔で、アンナの帽子をまっすぐに直した。
「いい子でいるのよ。楽しんできてね。それから、ええと・・・とにかく日焼けして、元気に、笑顔で帰っていらっしゃい」片手でアンナを抱き寄せると、別れのキスをした。アンナがあたたかさと安心と愛情を感じられるように、という気持ちをこめて。
 でも、アンナはミセス・プレストンのそんな気づかいを感じとって、やめてくれないかな、と思った。気づかいなんかされると、ふたりのあいだに垣根ができて、自然なさよならが言えなくなる。


以前この部分について「どうやらアンナは不自然なことが嫌いなようですね」と書きましたが、そうではありません。


アンナは、ミセスプレストンの気づかいが愛情によるものではなくうわべだけのものかもしれないと不安に思うようになったのです。

きっとその人たちも、ほかの人たちと同じく、うわべだけ愛想よくしてくれて終るだろう。


もしかするとミセス・プレストンも他の人と同じではないか?


この疑いが、アンナの心に垣根をつくってしまい、愛情を素直に信じることができなくなってしまったのでしょう。


f:id:shinya1996:20150212201607p:plain


しかしその直後、一瞬だけアンナの心がフッと軽くなります。


アンナを乗せた列車が動き出し、ミセス・プレストンが急に悲しそうな、すがりつくような顔をして走り出した瞬間です。


ミセスプレストンの様子からうわべだけではない何かを感じることができたので、それがアンナの心を少しだけ軽くして、アンナは列車から身を乗り出して「おばさん行ってきます!」と叫んだのでした。


リトル・オーバートンに到着したアンナ。さっそくミセスプレストンに手紙を書きます。


心のこもったことを書きたくて、ふつうの「愛を込めて」という表現ではなく「何トンもの愛を込めて」と書きました。


けれど、心に芽生えた小さな疑問は大きくなりつつあり、アンナはいつもいつもミセスプレストンに対してやさしい気持ちでいられるかどうか自分にも分からないのでした。

映画よりもしっかりしているアンナ


映画と原作の違いで目に付く点として、原作のアンナは結構しっかりしているということがあります。


映画の杏奈は「他人と会話しただけで発作」「他人と会話したくない会いたくない」「後先考えずに瞬間的にキレる」などなど極度に自閉的で精神が不安定であるような描写がされていたのですが、原作のアンナはもうすこし大人です


まず、他人との会話ですが、原作ではそこまで他人との会話を拒否したり怖がったりするような描写は見られません。


ペグおばさんに初めて会った時も自分から話しかけていますし、おばさんのおつかいで近所の家に酢やビンを借りに行くのも平気です。


太っちょブタのサンドラとは喧嘩をしてしまいますが、ペグおばさんから言われたとおりに自分から仲直りしようとする努力さえ見せます。


映画よりもしっかり者のアンナ。ところで映画では12歳でしたが原作では何歳でしょうか?


ヒントとなりそうなのは、リンジー家の兄妹たちの年齢です

  • アンドリューは14歳くらい
  • マシューは7、8歳に見える
  • プリシラはアンナより年下に見える


長男のアンドリューが14歳とだとすると、その下のジェーンは13歳以下ということになります。またマシューが8歳だとすると、その上のプリシラは9歳以上ということになります。


アンナがジェーンより年下でプリシラより年上だとすると、アンナの年齢は10歳から12歳の間ではないでしょうか?もしかすると映画よりも若干年下なのかもしれません。

よきものなんてどこにもない


そして、小説と映画で決定的に違うと感じたのが、アンナが涙を流すシーンです。


小説では、アンナとサンドラの仲が悪いことがきっかけとなり、アンナは涙を流します。


アンナとサンドラの不仲のせいで、ペグのおばさんがサンドラのおばさんのところに遊びに行けなくなったのですが、アンナはその罪悪感で泣いたわけではないと思います。


アンナはいつもの通り、サンドラに対して友達になれるという期待は最初から持っていなかったはずです。


なぜなら、もし期待を持ったとしても見えない魔法の輪のせいでサンドラとは友達になれず、結局自分の心を傷つけることになってしまうからです。


けれども、アンナがそういう態度を取ったことが原因で、今度はペグのおばさんを不幸にしてしまいました。


アンナがサンドラと仲良くしようとしても、しなくても、いずれにせよ自分か他人を傷つけてしまいます。


もうどうすることも出来ない。


「よきもの」なんてどこにもない---いちばん良くないのは私だ


まるで自分の存在そのものが悪であるかのような絶望感ミジメさが熱い涙となって、アンナの頬を流れたのでした。


f:id:shinya1996:20150208214453p:plain


つづく

アキレスと亀2

【前回までのあらすじ】
古代ギリシャの哲学者ゼノンの刺客「飛んでいるは止まっている」「二分法」を無事論破したジョジョだったが、最強の敵アキレスと亀を論破することはまだ出来なかった・・・。


ゼノン「""や"二分法"が論破されたようだな」
「クククっ、奴らは我ら四天王の中では最弱!


はたしてジョジョアキレスと亀を論破できるのかっ!?*1


アキレスがP1に来ると亀はP2に来ていて、アキレスがP2に来ると亀はP3に来ています。これは永遠に繰り返せるのでアキレスは亀に追いつくことはできません!


アキレス「あ・・・ありのまま今起こったことを話すぜ!俺はのいた点P1に進んだがはその少し先にある点P2に進んでいた。俺はさらにP2に進んだが、はそのさらに先にあるP3に進んでいた。な・・・なにを言ってるのかワカらねえーと思うが俺も何をされたのか分からなかった・・・。頭がどうにかなりそうだった・・・。催眠術とか超スピードとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっとも恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・


アキレスが亀を追い越すには、アキレスだけが前進して亀が停止している瞬間が必要ォォォォッ!!


しかしっ、アキレスが亀を追いかけ続けても、永遠にその瞬間はおとずれないィィィィっ!!!


ゼノン人間に勝てるか?お前はこのゼノンにとってのモンキーなんだよジョジョォォォー!!」*2


ジョジョ、大ピンチ


しかし、その時ジョースター卿はこう言いました
f:id:shinya1996:20150123221028j:plain

「アキレスが永遠に追いかけても、亀が停止しないと追い抜けないって?
逆に考えるんだ。亀が停止しないと追い抜けないのなら亀を止めちゃえばいいさって考えるんだ!!」


そ、そうか!


ジョジョ「亀をっ!! 抜くまでっ!! 僕は追いかけるのを止めないっっ!!!


ザ・ワールドッッ!!


ババーン! ド・ド・ド・ド・ド・ド


ゼノン「ハッ!!ここはっ!?

f:id:shinya1996:20150124135519p:plain

ジョジョ「ここは虚無の空間だ。何も無い空間にをおいた」

ゼノン「・・・それで?」

ジョジョ「この空間で前進してみるがいい

ゼノン「そんなことはたやすいことだっ、それっ!


ゼノンスタンドの力を使って超スピードで前進を始めました。


f:id:shinya1996:20150124135519p:plain


ジョジョ「なにをしている?さっさと前進しろ

ゼノン「もう前進している。今光速を越えたところだ。」

ジョジョ止まっているじゃないか」


そうです。何も比較するものが無い虚無の空間だけがいるのであれば、時速1kmで移動しようが、光速で移動しようが「止まっている」のと区別がつきません。


だから、ゼノンが「亀は今、秒速30万キロで前進している!」といくら主張したところで


ジョジョ「亀は停止している。動いているというのであれば証拠を見せろ


と言われれば何も反論できません。だって速度とは比較対象があってこそ始めて意味があるものなのですから。


さて、この空間にアキレスを置きます。


f:id:shinya1996:20150124142613p:plain


アキレスは秒速2m、は秒速1m、二人の間隔は2mです。


しかし、亀を基準点として考えた場合、これは以下と全く同じことです。



f:id:shinya1996:20150124142804p:plain



意外ッ!?亀は停止しているっっ!!


ジョジョ「最初から前進などしていない。亀が前進しているというのは、ただの錯覚だったのだ!!


ゼノン「ばかなっ!は前進しているはずだっ!!」


ジョジョ「前進している?だったらそれを証明してみろ


ゼノンUREYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYッッッ!!!



ド・ド・ド・ド・ド・ド




けれど、まだ諦めきれないゼノンさん。必死に食い下がります。


ゼノン「しっ、しかしっ!点P1P2はどこに行ったのだ!?アキレスがP1に行けば亀はP2に、アキレスがP2に行けば亀はP3に行くはずだっ!!」


ジョジョ「良くみろ、点P1P2はちゃんとある」


f:id:shinya1996:20150124145652p:plain


ゼノン「何ぃっ!?の足元から、次々と点P1P2がアキレスに向って流れて行くだとっ!?


ジョジョ「そうだ。からアキレスに向って無限に点は流れ続ける


ゼノン「ふははははっ!馬鹿めっ! であればアキレスは無限にその点を越える必要があるっ!!無限を超越しなければ、アキレスはの位置まで到達できないぞっ!!


ジョジョ「よく見ろ。点がアキレスと交わるのは、アキレスと中間点だ」


ゼノン「中、間、点だと・・・ハッ!?


ジョジョ「気付いたようだな。そう、これは二分法全く同じことっ!! つまりアキレスは"2秒"無限に分割することにより、無限の点を超越して2秒後の位置に到達するっ!!


ゼノンそっ、そんなバカなっ!?ジョッ、ジョジョォォォォォォォォッッッッッッーーーーー!!


ジョジョオラッ!!オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラッ!! オラァァァッ!!


ゼノンヒデブッッ!?


ドゲシャアアアアアアアアアアアアッ!! ババーン!!


ジョジョゼノン、お前の敗因はたった一つ。たった一つのシンプルな答えだ。てめえは 俺を 怒らせた


ド・ド・ド・ド・ド・ド



おしまい

*1:こんな話だったっけ?

*2:もはや意味不明ですが

アキレスと亀

アキレスと亀パラドックスは、誰でも1度は聞いたことがあると思います。

先日なんとなくウェブを見ていて久々に目にしたのですが、改めて考えるとこれは凄く不思議ですよね。

f:id:shinya1996:20150123210705p:plain

アキレスの前方を亀が歩いており、アキレスは亀を走って追いかけます。

しかし亀がいた地点P1にアキレスが進むと、亀はわずかに進んだ地点P2に移動しています。
さらに亀がいた地点P2にアキレスが進んだときでも、ふたたび亀はわずかに進んだ地点P3に移動しています。

この考えは無限に繰り返すことができ、したがってアキレスは亀に追いつくことができません


自分はたしかこの話を、小学生か中学生のころに先生から聞いたような記憶があります。


その時、先生はこう説明してくれました。

これはアキレスが亀に追いつくまでの時間を無限に分割しているだけにすぎない。


たしかにそうです。


現実にはアキレスは亀に追いつけますし、追いつくまでの時間を無限に分割しているというのも間違っていないように思えます。


このパラドックスを考えたのは、古代ギリシャゼノンさんだそうです。これでゼノンさんを論破できるでしょうか?

「ねえねえゼノンさん。ゼノンさんが考えたパラドックスって、アキレスが亀に追いつくまでの時間を無限に分割しているだけじゃないの?

でもゼノンさんはこう答えるかもしれません。

ゼノン確かにそうかもしれないね。でもさ、アキレスがP1に来たときに亀がP2にいるのは確かだよね?だから追いつけないよ


うーむ、ゼノンさんは納得してくれそうにありません。そこで私は計算を示してゼノンさんを納得させることにしました。

「アキレスの速度を2m/秒、亀の速度を1m/秒として、亀はアキレスの2m前方にいると仮定するよ。すると2秒後にアキレスは亀に追いつく。だって2秒後にアキレスは4m進んで亀は2m進むから、二人の位置は同じになるよね? つまり 2 x 2 = 2 + (1 x 2) だよ。」

だけどやっぱりゼノンさんはこう答えます。

ゼノン計算ではそうなるかもしれないね。でもさ、アキレスがP1に来たときに亀がP2にいるのは確かだよね?だから実際には追いつけないよ


むむむ・・・ゼノンさんはあくまで認めようとはしないようです。


ついに私は、アキレスと亀を呼び出してゼノンさんの目の前で競争してもらいました。

「ほらっ!見て見て!!今アキレスが亀に追いついたでしょ!!やっぱりアキレスは亀に追いつくよ!!」

でもゼノンさんはこう答えるかもしれません。

ゼノン実は僕、目が見えないんだよ。とにかくさ、アキレスがP1に来たときに亀がP2にいるのは確かだよね?だから追いつけないよ もし追いつけるというのであるなら、変な数式とか使ったりしないでちゃんと論理的に説明してよ


うがあああああっ!!!


思わず取り乱してしまいましたが、よくよく考えてみるとゼノンさんは嘘を言っているわけではありません。考えてみると確かにそうです。アキレスがP1に来たとき、亀はP2に進んでいる。これは正しいように思えます。否定しようがありません。


それをいくら「このパラドックス時間を無限に分割しているだけだ!無限に分割するのだから無限なのは当たり前だ!」と言ったところで「そうかもしれないけどさ、でも結局アキレスは亀を抜けないじゃん(笑)」と言われたら、ぐうの音も出ません。


だから、ゼノンを論破したければ、アキレスが亀に追いつけないという議論から逃げずに、正面から彼を論破する必要があります。


もしアキレスが亀に追いつこうとするならば「亀が停止していて、アキレスだけが動く」という状況がなければいけません。


けれども、アキレスがP1に来たとき亀がP2に来ていて、アキレスがP2に来たとき亀はP3に来ていて・・・ということを無限に繰り返しても「亀が停止していて、アキレスだけが動く」という状況は永遠に発生しそうにありません。


じゃあアキレスは亀に追いつけないのかっ!?


いえいえ、そんなことは無いはずです。 さっき、私の目の前でアキレスは亀に追いつきました。


なんで追いつけんの!? 論理的に追いつけないはずなのに・・・・


そのとき、私の脳裏にジョースター卿の言葉が蘇りました。

f:id:shinya1996:20150123221028j:plain

ジョースター卿「なにジョジョ?無限に繰り返してもアキレスは亀に追いつけないだって?ジョジョ、それは「時空は無限に分割できる」と考えるからだよ。
逆に考えるんだ「時空を無限に分割することは、実はできない」と考えるんだ。


・・・なーるほど、もし時空の分割に限度があるのであれば、分割を繰り返せばいつかは「亀が停止していて、アキレスだけが動く」という状況に辿りつけるはずです。


それなら実際にアキレスが亀に追いつくことも説明できます。な~んだ「時空が無限に分割できない」ならば全てが解決するじゃないですか!!


実は、これは量子物理学とも合致することです。たとえば電子が原子核を回る軌道は特定の軌道だけです。電子はある軌道から別な軌道に移動できますが、その中間の中途半端な軌道には存在できません。


テニスボールを地面に落としたとき高さAに跳ね上がったとするならば、テニスボールは高さAに跳ね上がるまでの間は地面と高さAの中間の位置に存在したといえますが、電子ではそういうことはありません。地面から高さAに瞬間移動して、その中間の位置にいるということがありえません。


これは我々の日常感覚とはかけ離れたことですが科学者によると電子の軌道は飛び飛びで、なめらかに移動することが無いのです。


さっきのテニスボールも、地面から高さAに「なめらか」に移動したのではなく、魔法の顕微鏡をつかって極限に拡大して観察したら、極小の「段差」「飛び飛び」瞬間移動しているだけなのかもしれません。


だから空間を無限に分割できないというのは、物理学的にはひょっとすると正しいのではないでしょうか?


つまり、アキレスと亀空間を飛び飛びに瞬間移動を繰り返して前進していたのです!!


めでたしめでたし


・・・うーむそれで本当に良いのでしょうか?


仮に時空を無限に分割できると仮定したならば、本当にアキレスは亀に追いつけないのでしょうか?


ところで、ゼノンさんは「アキレスと亀」以外にも、いくつかのパラドックスを考え出しています。


たとえば「飛んでいる矢は止まっている」というのも、やはり誰もが一度は聴いたことがある有名なパラドックスです。

瞬間においては矢は静止している。どの瞬間においてもそうである。という事は位置を変える瞬間はないのだから、矢は位置を変えることはなく、そこに静止したままである。

アキレスと亀は一旦置いておいて、このパラドックスは成り立つでしょうか?


私は、このパラドックスに関しては簡単にゼノンを論破できそうです。


瞬間とは、つまり「時間ゼロ」のことです。矢が10秒間飛ぶとして、その10秒の間に無数の瞬間を見出すことはできますが、その無数の「瞬間」を無限に合計したとしても元の10秒にはなりえません。ゼロを何倍にしてもやはりゼロです。


ですのでゼロの瞬間を合計すればあたかも元の10秒になるかのように聞くものを誤解させているところに、この論理の破綻があります。


わかりやすく別な例えをつかうと

ゼノン「ここに10kgの金塊がある。この金塊を輪切りにして厚さ0の断面を取り出したが、その断面の金の含有量は0である。どの断面にも金は含まれないのだから、この金塊の重さは0である!(キリッ)

とゼノンさんは言っています。これならだまされる人はいないでしょう。

「ゼロを何倍してもゼロにきまってんだろ!バーカバーカ

と言えば、論破完了です。


また、別なパラドックス「二分法」というのもあるようです。

ある地点からある地点に移動するときは、かならずその中間点を通る必要がある。そして中間点にたどりつくには、さらにそこに至るまでの別な中間点を通る必要がある。これは無限に繰り返されるので、有限の時間で全ての中間点を通ることはできない。したがって移動することはできない。


なるほど、確かに中間点は無限に存在するので移動は不可能なように思われます。


しかし、たとえば目の前の机の上を10cmほど指でスッとなぞってみてください。なぞれますよね?


その10cmの間には無限の中間点があるはずです。なのに指は無限にあるはずの中間点を全て触ってなぞりきることができます。これはなぜなのか?


指が1秒で10cmなぞったとすると、中間地点の5cmに到達するのに0.5秒必要です。逆にいうと0.5秒あれば5cmなぞることができるともいえます。


次の中間地点はそこから2.5cm先です。さらにその次の中間地点は1.25cm先です。これは無限に繰り返すことができるので、指は無限にある中間地点を全て通る必要があったはずです。どうしてあなたの指は、無限にあるはずの中間地点を全て通ることができたのでしょうか?


しかし、ちょっとまってください。


0.5秒あれば、5cmなぞることができるのです。0.25秒あれば、2.5cmなぞれます。つまり10cmの空間を無限に分割したとしても、それと1対1で対応する無限に分割した時間があれば全ての距離をなぞることができるのです。


だからいくらゼノンが

ゼノン空間は無限に分割できるもんね。だから移動には終わりがないはずだもんね」

と言い張ったとしても

「じゃあこっちだって時間を無限に分割して移動につかっちゃうもんね。10cmを5cmずつに分割したとしても、こっちは1秒を0.5秒ずつに分割して移動しちゃうもんね」

と言い返すことが出来ます。

ゼノンが負けじと「じゃあこっちはさらに2.5cmに分割しちゃうもんね!」と言い張ったとしても、私も「こっちだって時間を0.25秒ずつに分割して移動しちゃうもんね!」と言い張れます。


もし10cmをなぞりきることができないというのであれば、距離が残っているのに時間が足りないという状況が必要になります。


しかし、どんなに分割を繰り返しても、そういう状況は発生しそうにありません。無限に繰り返したとしても、やはり全て移動することが可能です。


完全にキレゼノンが「でも分割は無限にできるんだよっ!終わりがないんだよっ!」と言い張ったとしても、私も「こっちだって時間を無限に分割できるし~。分割した距離と1対1で時間を対応させることができるし~。だいたいさぁ、そんなに移動が無理だって言うなら、どこまで分割すれば移動する時間が足りなくなるというのかちゃんと論理的に説明してよ!」と言えばよいだけです。


だから無限に分割できる10cm無限に分割できる1秒間を使用することにより、全てなぞりきることができました。 論破完了です。


さて、ここで再びアキレスと亀に戻ります。


これまでにゼノンを論破して涙目にさせた方法を使用して、アキレスと亀を否定できるでしょうか? 


・・・やっぱり難しいように思えます。


だって亀は常に前進しているから、いくらアキレスが前進しても亀だってわずかに前進しているはずだというのを否定できないからです。


亀を追い抜くには、亀を停止させてアキレスだけが前進できるという瞬間が必要になります!


さっきまでショゲていたゼノンさんも、にわかに息を吹き返しました

ゼノン「ふはははは!このパラドックスだけは解けまい!!どれだけ追いかけてもアキレスは亀に追いつけないっ!!勝ったッ!第3部完!!


ジョジョはこのまま負けてしまうのかっ!?*1


ここまで私が考えたとき、再びジョースター卿が私に囁きました。

「逆に考えるんだ!亀が停止しないと亀を追い越せないのであれば、亀を止めちゃえばいいさと考えるんだ!」


つづく

*1:え?

思い出のマーニー 原作のあらすじ

思い出のマーニーの原作小説のあらすじです

小説の冒頭から物語の半ばくらいまで。ネタバレは回避しました。

まだマーニーあう!まだまだマーニーあう!


つづく

思い出のマーニー 感想と考察 23 (読書感想第17~21章)

※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※


f:id:shinya1996:20140806001757j:plain

第17章 世界一めぐまれた女の子~第18章 エドワードが来てから

 アンナとマーニーはほとんど毎日を一緒に過ごします。マーニーは「あなたみたいな友達がずっと欲しかった。いつまでも友達でいてくれる?」と言って砂の上に二人を囲む輪を描き、二人は手を握り合って誓い合います。これで私も魔法の輪の仲間入りねっ!とこの上ない幸せを感じるアンナ。

 でも友情の形としては幼い印象を受けます。二人が初めて会ってからそう日数も経っておらずたいした喧嘩もしたことがありません。本当の友情というよりも「友情への憧れ」を友情と勘違いしているようにも感じられます。けれどこういうピュアな感情というのも小さい頃にしか体験できないものかもしれません。原作では明確に書かれていませんがアンナの年齢は小学校3年生くらいに思えます。あの頃と同じような友達は、もう二度と手に入れることはできません・・・。*1

 しかし湿地屋敷にマーニーの従兄弟のエドワード(16歳♂)がきてから、二人の関係がすこしギクシャクしはじめます。

 アンナが砂丘でマーニーを待っていてもマーニーは一日あらわれませんでした。しかし「昨日一日待っていたのに」と文句を言うアンナに対し、マーニーは「なにを言っているの?そこに昨日二人で置いていった花があるでしょ(つまり昨日は一緒に遊んだでしょ)」と言いだします。確かに花は置いてあるのですが、アンナの記憶ではその花を置いたのは二日以上前のはずでした。なのに花は少しもしおれていないように見えます。

 また、ある時は二人で一緒に家を作る約束でいたのに、マーニはその約束のことを全く覚えていません。そうかと思っていたら、別な日にマーニーとエドワードが二人で家を作ったという話を知り、アンナはショックのあまり「ふつうの顔」をマーニーの前でしてしまいます。

 これらの描写ですが、まるで二人の間の時間がずれ始めているようにも受け取れますね。アンナとマーニーは時空を超えて実際に出会っているのかもしれません。

第19章 風車小屋~第21章 窓の向こうのマーニー

 さてさて、いよいよ前半のクライマックスである風車小屋です。以前にも書きましたが、細かい点がいろいろ映画とは違います。映画では二人で一緒にサイロに行きましたが、原作では別々に風車小屋に行って偶然出会います。マーニーがアンナを「和彦」と呼んだり、彩香が「日記の続きを見つけた」というもの映画のオリジナル要素です。

 風車小屋でマーニーに置いて行かれてしまい激オコのアンナ。たった一人の友達だと思っていたマーニーが、もう友達でないように感じます。そして熱が出て三日寝込んだあと「絶対に許さない!」と言ってマーニーに会いに行くのでした。

 そして謝罪のシーン。原作ではこうです。

角川版 P200-201

「アンナ!大好きなアンナ!」
「なあに?」アンナもさけびかえした。
「アンナ!ああ、あなたのところへ行きたいのに!行けないのよ!わたし、部屋に閉じ込められているの。それに、あしたになったら、どこかへやられちゃう。あなたに言いたかった--さようならって。でもここから出してもらえないの。アンナーー」
 マーニーはガラスの向こう側で、どうしようもなく悲しい顔でさけんだ。「お願い、私を許して!あんなふうにあなたを置き去りにするつもりはなかったの。あれからずっと、ここにすわって泣いていた。ねえ、お願いだから私を許すって言って!」

 一方、映画ではこうでした。

マーニー「杏奈!大好きな杏奈!」
杏奈「マーニー!どうして私を置いていってしまったの?どうして私を裏切ったの!?」
マーニー「ごめんなさい、そんなつもりはなかったの。だってあのとき、あなたはあそこにいなかったんですもの
杏奈「どういうこと?」
マーニー「ああ杏奈あたしもうここからいなくならなくてはいけない。あなたにさよならしなければいけないの。だからねえ杏奈お願い、許してくれると言って!」

 おわかりでしょうか?原作と映画では決定的に違うところがあります。原作ではマーニはアンナを置いていってしまったことを「そんなつもりはなかった」と言っています。しかし映画では「あのときあなたはいなかった」つまり「私はあなたを置き去りにしていない」「私は無罪!NOギルティー!」とマーニーは言っているのです。

 あれ、マーニーって無罪?

 なぜ映画ではそういう表現を使ったのでしょう?映画ではマーニーが杏奈を「和彦」と呼んだり、杏奈の口から「マーニーは私が空想で作った友達」と言わせたり、マーニーはあくまで祖母の記憶の追体験だという印象付けが行われていました。であればサイロでマーニーが杏奈を残していったのも、祖母の話には杏奈が登場しなかったのだから当然ということになります。

 マーニーがアンナを置き去りにするなんて、酷い話だし、ちょっと違和感ありますよね?もしかするとジブリは観客がマーニーに対して理不尽さを感じないように原作小説を分かりやすく噛み砕いた解釈を観客に伝えたかったのかもしれません。

 ただ、もし「杏奈がその場に居なかった = マーニーは無罪」となると、マーニーは一体何を謝罪しているのでしょう?また杏奈は何を許したのでしょう?

マーニー「私は無罪なの!だから怒らないで!
杏奈「なあんだ無罪だったんだ。じゃあもう怒らない!

映画ではこういうことになってしまっている気がします。

 確かに「杏奈があの場にいなかった」なら、観客も「なあんだ、マーニーはやっぱりアンナを裏切ったりしなかったんだね!」ホッとします。でも、このシーンの大切な意味が薄れてしまってはいないでしょうか?

 一方、原作はもっと力強く、そしてストレートです。

マーニー「あなたを置いていった私を許して!だってあなたを愛しているから!
アンナ「許してあげる!わたしもあなたを愛しているから!

 マーニーがアンナを残していったことですら「どうせたいしたことではない」とアンナが気付いたからこそ、このシーンには意味があるような気がします。


つづく


*1:STAND BY ME

思い出のマーニー 感想と考察 22 (読書感想第10~16章)

※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※


f:id:shinya1996:20140806001757j:plain

第10章 アッケシソウの酢づけ ~ 11章 質問は3つずつ

 マーニーと初めて会った日の翌日、アンナは再びマーニーと出会います。ボートの漕ぎ方を練習してから入り江の奥に行き、そこで3つの質問をするのは映画と同じです。

 マーニーは「アンナのことをなんでも知りたいけれど、そのくせ何も知りたくない」と禅問答のようなことを言い出しますが、これがアンナの気持ちとピッタリ一致します。

 これまでアンナは湿地屋敷の住人に憧れを抱いていましたが、知り合いになることは恐れていました。

角川版 P49

きっとその人たちも、ほかの人たちと同じく、うわべだけ愛想よくしてくれて終わるだろう。「外」にいるアンナのことを「中」から面白そうにながめ、自分たちと同じものが好きで、同じものを持っていて、同じことをするものだと決めてかかる。そして、アンナが同じものが好きではなくて、同じものを持っていなくて、同じことが出来ないと気がつくと--または、いつもアンナをほかの人たちから遠ざけるなにかに気がつくと--すぐに興味をなくしてしまう。

 だから「どっさり質問したり、言い争ったりしたあげく、喧嘩して終わりなんてことにならないように、今のままでいたい」というマーニーの提案に、アンナは「わたしが感じていることと一緒だ」と嬉しくなったのです。

 マーニーと初めて出会ったときも「秘密の友達でいよう」というマーニーの提案に「この子はまさしく自分のような子だ」と喜んでいますし、アンナにとってマーニーは、生まれて初めて出会った共感しあえる友達なんですね。

角川版 P93

アンナはこぎながら、まっすぐ前をみつめた。まばたきもせずに目を大きくひらき、友達になった子をすみからすみまで知ろうと、暗がりの中で必死になった。

 まるで友情を"むさぼり求める"かのようなアンナの描写に心を打たれます。

 あとは、ボートで近づいてくるマーニーを見つけたシーン

角川版 P92

あの女の子が、まちがいなくほんとうに、どんどん近づいてきた。アンナはパシャパシャと水に入って女の子を迎えた。

という描写の「パシャパシャ水に入って」というところが、アンナの喜びが感じられてとても好きです。

 マーニーの兄妹が何人かを最初に質問するアンナ。先日船着場で見かけた子沢山の家族(リンジー家の人々)を湿地屋敷の住人だと夢想していたので、てっきりマーニーには兄妹が沢山いると勘違いしていたからです。でも、マーニーが1人っ子だと知ってすこしガッカリします。

 このあと、ペグ夫妻(映画の大岩夫婦)のことが思い出せず、アンナの前からマーニーが消えてしまうのも映画と一緒ですが、お互いに「消えたのはあなたのほう」だと言い張ってしまうため、喧嘩になりかけてしまいます。でもマーニーが喧嘩はやめようと提案したので、「どうせたいしたことじゃないし、マーニーと喧嘩するのは絶対に嫌だ」と思ったアンナの心から怒りは消えたのでした。この和解は別れのシーンと似た構図ですね。

第12章 ペグのおばさん、ティーポッドを割る

 翌日、ペグおばさんにサンドラと喧嘩したことがばれてしまいます。アンナは「向こうが先に悪口を言ったの」と抗弁しますが、その悪口が「ただのあたなそのもの」だと聞いたペグおばさんはあきれ返ってしまいます。まあ当然ですね。ちなみにそのサンドラの台詞はアンナがサンドラをブタ呼ばわりした後なので、アンナはすこし嘘をついているか、記憶があいまいになっているようです。

 誰にも会いたくないアンナは砂浜で一人きりになりカモメの声に耳を傾けます。

角川版 P109

カモメの声はさびしげで、きれいで、どこか懐かしく、なにか暖かいものを思い出させてくれるようだ。アンナがかつて知っていたのに、なくしてしまい、そのあと二度と見つからなかったなにかを。

 これはきっとアンナが湿地屋敷を見つけた時と同じ感情だと思います。湿地屋敷を見つけたアンナは自分がなくしていたものを思い出したのではないでしょうか。そしてその湿地屋敷に現れた生まれて初めての友達。つまりアンナにとってマーニーは「なくしてしまい、そのあと二度と見つからなかったなにか」の象徴なんだと思います。

第13章 家のない子 ~ 第14章 パーティーのあとで

 その夜アンナは家をこっそりと抜け出し、湿地屋敷に出かけます。すると屋敷ではパーティーをやっていたのでした。マーニーがアンナを花売りの子に化けさせてパーティーにもぐりこませようとするのは映画と一緒です。映画では結構うろたえていましたが、原作では意外と落ち着いているアンナ。アンナはマーニーといるとなぜか「なにもかも、あらかじめ決まっていることなのだ」と感じるようです。ちょっとした伏線ですね。

 このパーティーでマーニーのお父さん(原作では軍人のようです)から名前を尋ねられたアンナは自分の名前すら忘れていることに気がつきます。これは3つの質問のときと同じようです。

 他に映画と違うところは、マーニーとダンスしないことと、ばあやを部屋に閉じ込めないところですね。その後、マーニーにボートで送ってもらい岸に座って寝ているところを近所の住民に発見されます。アンナの靴にはマーニーに刺してもらったシーラベンダーの花がまだ刺さっているのですが、これが本当にマーニーに刺してもらった花なのか、夢遊状態のアンナが自分で刺したのかは謎です。

 また、映画では大岩夫妻には子供が二人いましたが、原作ではペグ夫妻は子を持ったことはないようです。

第15章「また私をさがしてね」

 第15章ではアンナとマーニーは2回出会います。1回目はうち捨てられた船の中、2回目は浜辺です。このシーンは映画にはありません。

 ばあやのことを「看護婦」だと勘違いしたアンナにマーニーは突然怒り出します。映画のマーニーはやさしい少女でしたが、原作のマーニーからは勝気で気分屋な印象を受けます。湿地屋敷から聞こえるというベルの音でマーニーは帰宅しますが、これは後半に出てくるカウベルですね。

第16章 キノコと秘密

 マーニーとキノコ狩りをする約束をしたアンナは、午前7時に堤防に出かけてマーニーを待ちます。堤防でマーニーが歩いてくる方向を見ながら待つアンナ。すると以外にも目の前にマーニが現れて驚きます。第15章でもマーニーは船の中にいたり、砂浜に現れたりと、神出鬼没のようです。

 このシーンでアンナが養育費のことをマーニーに打ち明けるのは映画と一緒です。養母のミセス・プレストンから養育費について打ち明けて欲しかったアンナは、なんどもお金の話をしてミセス・プレストンが打ち明けられるようなチャンスを作ってあげたとマーニーに話します。そしてミセス・プレストンもどうやらアンナが養育費の存在を知っていると気付いているようだとも言うのでした。

 映画版では、物語の最後に頼子が突然養育費について打ち明けるので、強い唐突感がありますが、どうしてこの台詞を映画では省略したんでしょうね? 杏奈が一言「おばさんも、たぶん気付いていると思う」と言うだけでよかったのですが。

 あと、原作と映画ではいくつか違うことがあるようです。

 映画ではアンナの両親は二人とも交通事故で亡くなっていますが、原作では父親は母と離婚しておりまだどこかで生きているようです。また、アンナは祖母のことを少し覚えていいると話しています。

 この章の最後でサンドラが登場。アンナが「変な子」だとはやし立てます。

角川版 P154

「変化な子だ!変な子だ!」アンナに気づくなり、サンドラがはやし立てた。「うちのお母さんが、アンナは変な子だって言ってたよ。浜辺でぶつぶつひとりごとを言ってるって。(略)」

 マーニーは、浜辺でぶつぶつひとりごと言うアンナが作り上げた空想の友達なのでしょうか?

 でも、アンナはマーニーが見つけてくれたキノコを手に持っていますし、パーティーのあとは靴にシーラベンダーもありました。空想の友達なのか、時空を超えて本当に会っているのか、真実は謎です。


つづく


 

思い出のマーニー 感想と考察 21 (読書感想第8〜9章)

※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※


f:id:shinya1996:20140806001757j:plain

第8章 ペグのおばさん、ビンゴに行く


 さてさて、サンドラと大喧嘩した日の夜、ついにアンナとマーニーの出会いが訪れます!


 その夜はペグ夫妻はそれぞれ外出してしまいアンナは1人でお留守番なのですが、おばさんが用意しておいてくれた夕食を1人で食べてからアンナは再び湿地に出かけます。時刻はまだ夕方で、水平線が夕日で赤く染まっています。


 岸辺に行くと一艘のボートを発見!そうですマーニーのボートです。映画では水色っぽい色のボートでしたが、色は「みがきあげられたクルミ色」。新品のボートでへさきには小さな銀色の錨が置いてあります。この錨は後編でアンナが古いボートから盗み出す錨ですね。その時はサビ付いて黒ずんだ古い錨になっていたのですが、この時はまだピカピカです。映画と違ってロウソクは置いて無さそうです。


 大胆にもボートに乗って湿地屋敷に向かうアンナ。ちなみにボートを漕いだことは一度もありません。


 するとどうでしょう!ボートは漕がずとも湿地屋敷のほうにドンドンと進むではありませんか!


 こいつは楽ちん・・・って、あれ? 進み過ぎのようです!ボートは湿地屋敷の前を通過しようとしています。しかも目の前には陸から水の中に突き出ている塀が! アンナ危うし!


 するとそこに颯爽とマーニー登場! 「早く!ロープを投げて!」


 このシーンですが映画原作では少し違うようです。映画では次のようなシーンでした。


f:id:shinya1996:20140904220330p:plain


 映画ではアンナのボートは湿地屋敷の方向につきすすみ、その状態でマーニーにロープを投げています。でもちょっと不思議ですよね。ボートは湿地屋敷に向かっているのだからロープを投げる意味がよくわかりません。杏奈もロープを投げる暇があるなら、むしろ衝突を避けるための措置を取るべきだったのではないでしょうか?


 しかし原作では以下のように描写されています。


f:id:shinya1996:20140904220327p:plain


 湿地屋敷の前を通過しつつあるボート。しかしボートの前には陸から張り出ている塀があり、衝突しそうになります。これならマーニーが「ロープを投げて」というのも理解できます。


 映画では入江があたかものような形をしていましたが。原作ではのような形をしているので、この違いが生まれたようです。

第9章 女の子とボート


 ついにマーニーと遭遇したアンナ。でも「大丈夫?」と聞くマーニーに対して、いきなり「普通の顔」モードが炸裂!「普通の声」で「うん」とだけ答えます。


 その後まず最初にアンナがやったことは「相手が本当の人間か?」というチェックです(笑) そういえばアンナは湿地屋敷の住人を妄想想像しては「本当の人間のはずがない」と思い込んでいましたねぇ。マーニーも何故か同じことを思ったらしく、初対面にもかかわらずお互いの体を触りまくります!日本ではちょっと考えられませんが、まあイギリスの文化なのでしょう。


 お互いに「本当の人間だ」と確認して笑い合う2人。アンナが笑うのは小説ではこれが初めてのようです。しかしここでちょっと問題が。アンナの手がベトベトだったのです!


 夕食に砂糖をまぶした菓子パンを食べたのが原因ですが…なんでアンナは手を洗わなかったんですかね(笑) アンナは夕食後に食器を洗っているのでその時に手を洗えばよかったはずなのですが・・・。 それに湿地の水で手を洗うという手段もあります。アンナちゃん・・・ひょっとして汚くても平気な子・・・つまり汚ギャルなんですかね?*1


 まぁそれはいいとして、ここからマーニーはアンナの気分を害する言葉を3連発します。

・あんたの手ベトベトよ!(自分の手を洋服で拭きながら)
・あんた家がない子?(原作では"ジプシー"という言葉を使ってたようですが、角川版は「家のない子」という表現が使われていました)
・私、村の子と遊んじゃいけないの。


 原作のマーニーは思ったことをズケズケと言うタイプのようです。この言葉でちょっと不機嫌になったアンナ。「まあ、べつにいいんだけどね」というマーニーに背を向け「無理することないよ」と言い放ちます。


 ここまでの描写を見ると映画と原作では初対面の印象が大分違いますね。映画ではすぐに仲良くなったのに対して、原作ではギクシャクした雰囲気からのスタートになっています。


 でも、ここからマーニーの猛アタックが開始。

・「私あなたのことが知りたい!」
・アンナを脇にひきよせる。
・アンナの肩に手をおく。
・アンナと身をよせあう。
・アンナの腕をぎゅっとつかむ。
・手をにぎりあう。
・片腕をアンナの腰にまわす。
・「ボートはあなたの為に置いておいたの!」
・「これまでもアンナのことをずっと見てた」
・「あなたは私の秘密よ」
・アンナの頬にキス


 さすがは大英帝国。かなりスキンシップが多めな印象です。このアタック(?)に参ったのかアンナはすっかりマーニーに夢中になってしまうのでした。


 ところで、ネットで映画の感想をいろいろと読んでいると「杏奈はマーニーとはすぐに仲良くなったのに、信子には酷いことを言ったのはなぜか?」という疑問を良く見かけました。


 自分としては、映画の信子は「輪の内側から、外側にいるアンナを興味深く見ているだけ」だと杏奈からは見えたのではないかと思います。


f:id:shinya1996:20140904235809p:plain


それに引き換え、マーニーは自分から輪の外にいる杏奈の側に来ていますよね。


f:id:shinya1996:20140904235812p:plain


この違いが大きいのかな、と思いました。


つづく

*1:汚ギャルって・・・(笑)

思い出のマーニー 感想と考察 20 (読書感想第6〜7章)

※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※


f:id:shinya1996:20140806001757j:plain


 このブログへのアクセス元は「Yahoo検索」が多いようなのですが、最近は「思い出のマーニー 感想 原作」といった原作の感想を求めるキーワードでの訪問が多いようです。中には「思い出のマーニー 読書感想文 書き方」という直球のキーワードでの訪問客もおられるようですが・・・もしかして夏休みの宿題の読書感想に「思い出のマーニー」を選んだのでしょうか(笑) 今頃きっと最後の追い込みですね。頑張ってください。


 一方でGoogleからの訪問客は少ないようです。ためしに「思い出のマーニー 感想」というキーワードで検索しても、このブログはランク外になります。どうやらGoogleからは「他のサイトと似たサイト」と判別されて検索結果から除外されているようです(涙)


Pity me! Oh ! Pity me!


 しかし、めげずに更新を続けて行きます!

第6章 「不細工な、でくのぼう」


 さてさて、この章ではついに我らのマーニーが登場します!といっても、窓の中で髪をとかしてもらっているのをアンナが目撃しただけですが。

 興奮してダッシュで家に帰るアンナ。しかし玄関ではペグおばさんとサンドラ(映画の信子)のお母さんが会話しているのでした。アンナは物陰に隠れて2人の会話を盗み聞きします。

 サンドラのお母さんは今晩遊びに来るように誘い、ペグおばさんは最初喜ぶものの「けど、あの子がいるから」と言って迷います。すると会話はアンナの話題となりサンドラのお母さんは次のようなことを言い出しました。


角川版 P53

「うちのサンドラは、友達になりたいと思っていたのよ。いちばんいいワンピースを来て、おまけに新品のペチコートをはいてさ。だけど帰って来てから言うのよ、『ママ、あたし、あんな不細工な、でくのぼう見たことない』--」


 おおっと、いきなり穏やかではありません!

 だけど、このサンドラのお母さんは映画版だと随分と大げさに話す人でしたね。大岩夫妻の所に文句を言いに来た時も「杏奈はカッターをチラつかせていた」とか言っていましたが、本当は湿地でスケッチしながら鉛筆を削っていた杏奈を信子が見かけただけでした。

 信子が泣きながら帰ってきたとも言っていましたが、それも恐らく信子が少し暗い顔で帰ってきたのを針小棒大に表現しただけではないでしょうか?
 
 もしかするとこの原作のサンドラのお母さんも少し大げさに話しているのでしょうか?サンドラが着ていた良い服も、サンドラの意志ではなくお母さんが着させたのかもしれません。それに「不細工なでくのぼう」だなんて、サンドラは言ってないのかもしれません。

 けれど、もし本当にサンドラが自分の意志で新しい良い服を着てきたのであれば、アンナから無視されたサンドラも少し可哀想ですよね。まあ、本当のところはわかりません。


 さてさて、ペグおばさんはこの発言を聞いてになったのか「あの子はこの上なくいい子」「今夜のお招きは遠慮する」と言って会話を打ち切ってしまいます。そして、この会話を聞いていたアンナは「今晩おばさんが出かけないのは私のせいだ」と自責の念にかられてしまうのでした。

 最初、あらゆることに腹を立て始めるアンナ。

  • サンドラは私を不細工なでくのぼうと言った!
  • やさしいペグおばさんは私を「この上なくいい子」だと言ってくれた!けど私のせいで遊びに行かないマヌケだ!
  • サムおじさん(ペグおばさんの夫)はテレビでつまらないボクシングなんて見ちゃって!
  • それにサンドラのお母さんときたら!!
  • ペグおばさんが出かけていればこんな後ろめたい気持ちにならずにすんだのに!!

 あ、いや、ペグおばさんは冤罪ですし、サムおじさんはもう完全にトバッチリですね(笑)

 けれど、もちろんアンナは自分に原因があることを知っています。

角川版 P56

 アンナは壁にかかった刺繍の額を見て、それにも腹を立てた。「よきものをつかめ」って言うけど、よきものなんてどこにもない。だいたい、これってどういう意味なんだろう。錨って、よきものなの? でもそんなものを持っていたところで、一日じゅう持ち歩くことなんてできやしない。それこそばかみたいだ。
 アンナは額をうらがえしにして、窓辺に歩みよった。床にひざまずいて、夕焼けに赤くそまった畑を見はらすと、みじめな気持ちが熱い涙になってほおを伝った。「よきもの」なんてどこにもないーーいちばんよくないのは、このわたしだ。

 なんでしょう。この「額をうらがえす」という仕草が少し可愛らしく感じられて、そのためかえってこの情景を悲しいものにしているような気がします。

 アンナが床にひざまずいているうちに、あたりは暗くなってきました。するとさっき湿地屋敷で見た「金髪の少女」のことが思い出されてきます。

 「あの子はきっとパーティーのおめかしをしていたんだ」「今頃はパーティーが始まっているはず!」どんどんと空想を広げていくアンナ。

 パーティーの様子があまりにクッキリと想像できるため、まるで自分の空想が本当の事のように思われてきたアンナはこっそりと家を抜けだして入江まで走りだしました。

 しかしもちろんあたりは真っ暗。 "タゲリ"という鳥の不吉な声だけが湿地に響きます。



 ぼうぜんと肩をおとして、トボトボ家に帰る、ちょっと危ない感じ可哀想なアンナなのでした。

第6章 「太ったブタ」


 昨日のことを後ろめたく思ったアンナは、ペグおばさんにお手伝いをしたいと言い出します。するとペグおばさんはアンナにアッケシソウを積んできてくれるようにお願いするのでした。
 f:id:shinya1996:20110627092734j:plain

 ちなみにこのアッケシソウ、『シーアスパラガス』とも呼ばれていて、高級食材のようですね。 日本では北海道の厚岸湖で最初に発見されたのでこの名前がついているそうですが、天然のものは2000年に絶滅危惧種に指定されており、収穫することは禁止されているので国産物が市場に出回ることはほぼ無いそうです。

 ネットで検索してみたところ、オランダでは100グラム3ユーロ(400円くらい)だそうで牛肉なんかよりもずっと高いです!生で食べると海水の味がするのだとか。

 アンナは黒いビニール袋が一杯なるまで積んだと描いてあるので、恐らく2キロくらいは収穫したのでしょうか?とすると…末端価格で60ユーロつまり日本円にして8000円くらいをゲットしたことになります!*1


 さてさて、昨晩の「パーティー妄想事件」がショックだったのか、入江でアッケシソウを取りながらも「湿地屋敷はふりかえりもしない」アンナ。

 ところで、映画の湿地屋敷は杏奈のいた岸辺の対岸にありましたが(一応大岩家とは地続きでしたが)、原作ではペグ夫妻の家と同じ岸辺にあるようです。つまり湿地屋敷を見ようと思ったら、一度入江を渡ってから"ふりかえる"必要があるのですね。

 ちなみに、こちらのURLに原作者が描いた地図の画像が貼ってありました。


 アッケシソウを積んだら、次は「ビン」と「お酢」を郵便局のミス・マンダーズさんの所に借りに行きます。でも、マンダーズさんは「うわさ話が大好き」なようで、この村の情報通。きっと既にアンナの話もサンドラのお母さんから吹き込まれていたのでしょう。「ひきつった笑顔」でアンナのことを迎えたのでした。

 するとそこにサンドラもやってきたのです!両雄、まさに一触激発の雰囲気。*2
 
角川版 P65

「わたしは挨拶しようとしただけでーー」アンナがつんとして言いかけると、サンドラがとちゅうでさえぎった。
「じゃあ言いなさいよ、ほら、早く言えばいいじゃん!」
「なんのこと?」
「好きなように悪口を言いなさいよ。あたしは気にしないから!どっちみち、あんたの見た目だってたかが知れてるんだから

 うーむ、原作ではサンドラの容姿について「色白でどっしりした体つき」「ひざはむっちりしている」と描写されていました。どうやらサンドラには自分の容姿に対するコンプレックスがあるようです。

 だからきっと、どうせアンナに悪口をいわれるだろうからと、先回りしてこういうセリフを吐いているのでしょうね。

 なんだかサンドラが少し可愛そうになる私。アンナはこのあとマーニーやリンジー家とのふれあいによって心が満たされて行くのですが、サンドラはこのあとどうなってしまうのでしょうか?

 「あんたの見た目だってたかが知れてる」というセリフからは、アンナの容姿がサンドラよりは良さそうなニュアンスが受け取れます。うーん、アンナはサンドラと比較して結構恵まれているとも言えるのではないでしょうか?

 しかしアンナも既に戦闘モード。そんなサンドラに対して

 「太ったブタ!」

と言い放つのでした。アンナちゃん、容赦ありません。

 けれど太ったブタサンドラも負けてはいません。「そんじゃあ、こちらも言わせてもらうからね!」とますますヒートアップ!

角川版 P66

あんたがどんなだか教えてあげる。あんたの見かけはね、あんたの見かけはーーただのあんたそのものよ。へっ!

 サンドラの言葉は、正直あまり悪口には聞こえません。けれどこの言葉が「自分が嫌い」なアンナの胸にはグサリと刺さります。

角川版 P66-67

どんな子かなんて自分がいちばん良くわかっている。みにくくて、まぬけで、短気で、ばかで、恩知らずで、礼儀しらず…だから、だれにも好かれない。でもそれをサンドラから言われたくなんかない!もう、絶対ゆるせない。

アンナは的確に自分を分析自虐的に自分を捉えているようです。しかし、アンナちゃん…サンドラは別にそんなこと言ってないのですが(笑)

 けれど、アンナにとって「自分は自分の通り」という言葉は、悪口に聞こえてしまうのですね。ちょっと切ないです。


 砂浜へ行き、鳥たちだけをお供に何も考えずにすごす孤独なアンナ。そんなアンナの頭上ではイソシギ

Pity me ! Oh ! Pity me !

と鳴き続けるのでした。


つづく

*1:でっていう

*2:女の子ですが・・

思い出のマーニー 感想と考察 19 (読書感想第5章)

※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※


f:id:shinya1996:20140806001757j:plain

第5章 気の向くままに


 湿地屋敷の存在を知ったアンナは、一日中湿地屋敷のことばかり考えるようになります。そしてアマリンボー(映画の十一、岩波版のワンタメニー)から「湿地屋敷を買った人たちがもう直ぐ引っ越してくる」という話を聞いてからは、なお一層その人たちのことばかりを考えるようになるのです。


 アンナは「外」の人とは友達になれないと思っています。「外」の人と知り合いになると、みんな最初はアンナを興味深く見てくれるのですが、アンナが他の人とは違うことに気がつくとアンナから興味を失ってしまうからです。たぶんそういう事が学校でたくさんあったんでしょうね。


 でも、もしアンナの方も相手に興味がないのであれば、相手が自分に興味を持たないのはむしろ好都合なはずではないですか?つまりアンナは「外」の人が嫌いなわけではなく、じつは興味があるように思えます。けれどアンナは相手に興味を持っているのに、相手のほうがすぐにアンナから興味を失ってしまうので、アンナはその失望から"相手を冷ややかに嫌こと"で自分の心を守ろうとしているのだと私は感じました。


 第1章でアンナは、友達がいないことに「興味がない」「どうでもいい」と感じている事が描写されていましたが、もともとは興味があったのでしょう。でも相手が自分に興味を持ってくれず失望することが続いてしまったので、「自分だって相手に興味なんて無いもんね!」思い込むようになったのではないでしょうか。自己防衛の手段として。


 しか~し!湿地屋敷の住人は例外です。湿地屋敷はアンナにとって特別な場所。その特別な場所に住む人たちはアンナにとっては家族のようなもので、そこに住む人たちは他の人とはきっと違うはずだと思うアンナ。けれど、知り合いになることはやはり恐れています。


 ただ遠くからこっそりと眺めて、ゆっくりと名前を知り、誰がお気に入りかを考えたり、どんな遊びをしたりするのか、夕食に何を食べるのか、何時ごろ寝るのか、そういったことをゆっくり考えたい・・・。


 まだ見ぬ住人を自分の夢の家族として妄想・・ではなく空想を含まらせては「本当の人たちのはずがない」と自分に言い聞かせる、ちょっと変なアンナなのでした。


 なんか良くない方向に育たなければいいのですが(笑)


 また、この章でついに私たちのアイドル「太っちょブタ」のサンドラ(映画版の信子)が登場していますね。

 
 映画版では杏奈よりも1つ年上で少し大人びた感じの子でしたが、原作のサンドラは嫌な奴そのものという感じで書かれています。


 二人はトランプをしますが、二人が知っているルールは違うわ、サンドラはずるをするわで、すっかり嫌になったアンナはトランプを全部サンドラに渡して


角川版 P47

「はい。みんなあんたにあげる。そうすれば絶対に勝てるでしょ」


と言い放ってからはサンドラを完全無視してペグおばさんの雑誌を読みふけるのでした。*1


 うーん、でもアンナちゃん。おじさんお兄さん思うのですが、サンドラの立場から見るとアンナちゃんはどう見えたんだろうね?


 トランプのルールが違うのはお互い様だし、サンドラがずるをしたように見えたのも、もしかするとサンドラが適用しているローカルルールなのかもしれない。それにサンドラから興味を失って雑誌を読むアンナちゃんの姿は、君が冷ややかに嫌っている「外」の人と同じじゃないのかな?


 その間サンドラはなにもすることなくがなく、ただ椅子に座って服のすそを触ったり髪をいじったりしながら、自分を無視して雑誌を読みふけるアンナちゃんを端目に親が戻ってくることをひたすら待ち続けていたようだけど、その間中ずっとサンドラは何を感じていたのだろう?


 サンドラはアンナちゃんに興味を持っていたかもしれないのに、アンナがサンドラに興味を持たなければ、サンドラはアンナちゃんを冷ややかに嫌うしかないじゃないかっ!!


 そう言ってアンナの両肩を強くゆさぶってやりたいお兄さんなのでした。


つづく

*1:ちなみにタイトルは「家庭の言葉」アンナが読むにはちょっとシブめの雑誌っぽいですね

思い出のマーニー 感想と考察 18 (読書感想3~4章)

※以下、ジブリの新作アニメ「思い出のマーニー」のネタばれが含まれています!!※


f:id:shinya1996:20140806001757j:plain

第3章 船着き場で~第4章 古い屋敷


 ミセス・プレストンに手紙を出すため、郵便局に行くアンナ。そこで物語後半で再登場するリンジー家の人々を見かけます。アンナは思わず「ふつうの顔」をして身を隠しますが(?)幸運にもリンジー家の人々は道に止めてある車に乗ってどこかへ行ってしまったのでした。


 ここで少し「ふつうの顔」について説明があるのですが、物語冒頭のミセス・プレストンとの別れを思い出したアンナは

角川版 P28

あのときは「表情のない顔」をつくって自分を守るしかなかったものだ。

と思っています。あの場面のアンナは意図的に「無表情」を作ったように読めますね。とするとミセス・プレストンがそれを「無表情」と受け取ったのは自然なことだったわけです。


 そしてこの直後にアンナは「湿地屋敷」を発見し「これこそ自分がずっとさがしていたものだ」と感じます。


 湿地屋敷の窓が1つだけ開いていると書かれているのですが、とするとこの窓を開けたのは物語り後半で湿地屋敷に住むリンジー家の人々か、もしくは湿地屋敷の売主でしょう。


 湿地屋敷について目に付く表現があるのですが

角川版 P32

アンナはあこがれを胸に屋敷をみつめた。たしかで、いつまでも変わらない屋敷を。

角川版 P42

あそこになきゃおかしい。もしなかったら、もうたしかなものなんてどこにもない・・・なにもかも、わけがわからなくなる・・・。

 この「たしかなもの」という表現が、壁にかかっている刺繍の「よきものをつかめ(Hold fast that which is good)」という言葉との絵を思い起こさせます。

 アニメのポパイが腕に錨の刺青をしていますが、あれは船乗りがする伝統的な刺青で「Hold fast」という文字が添えられていることが多いようです。つまり「ロープなどをしっかりつなげよ!しっかりと固定しろよ!」という船乗りの自戒の意味をもつ刺青です。錨のマークには「大西洋を航海したことがある船乗り」という意味もあるようです。

 一方で聖書には別に「We have this hope as an anchor for the soul」という有名な文もあります。つまりキリスト教的感覚だと = 希望であるようです。*1

 そしてその2つが結びついて

  • Hold fastといえば
  • と言えば希望

という連想があるようです。Hold fastで検索すると刺青の画像が沢山出てくるのですが、「We have this hope as an anchor for the soul」が添えられているものが散見されます。

 つまり「たしかなものをもっていないアンナ」というイメージは「希望をもっていないアンナ」という暗喩なのでしょうか?

 物語後半に錨を盗むのは、確かなもの、つまり希望が欲しかったから?もしかしたら考えすぎかもしれませんが、そういうことを考えました。


ところでアンナがペグ夫妻に

角川版 P35

「ああそうだ。「ピティー・ミー、オー、ピティー・ミー」って鳴く鳥はなんですか?」

と質問してペグ夫妻に「ぽかーん」とされるシーンがあるのですが、アンナはかなり天然が入っている映画版よりも若干幼い印象を受けます。


つづく

*1:かなり適当ですが・・・